シルバーフィッシュ 1話


 片方の手をポケットに収め、もう片方の手を胸に当て、意識して呼吸をしながらゆっくりと廊下を歩く。
向こう側から歩いてくる生徒たちは少し心配そうにこちらに目を向けてはまた視線を前に戻す。
気にする必要はない。別に俺はおなかが痛くなったりしてるわけじゃない。ただちょっと心の準備をしているだけなんだ。

 俺の名前は守田勇一。青春たっぷりな高校生活を満喫する元気な男子高校生。所属してる部活は野球部でポジションはキャッチャーだ。
最近の趣味は本を読むこと。意外と思われるかもしれないが俺は読書家なのである。そしてそんな俺が今日向かうのも図書室。
ただひたすらに前へ歩くことを意識しながらちょっと周りの反応を気にしながら歩き、ついに目的地にたどり着いた。
ドアの上には「図書室」の3文字がかかれたプレートがひっそり自己主張。見慣れた光景のなんでもない一部だが、それが今日だけはどこか威圧感を放って見えた。
俺は強くドアノブを握りしめ、力を込めてひねり、うるさくなりすぎないように静かに深呼吸し、開ける。

 少し古いドアの小さくきしむ音が静かな空間に響く。目の前に広がる図書室の光景は安心感さえ感じるものだった。
ゆったりと歩を進める。ちょっと複雑だけどよく知ってる間取り、こちらに一瞬目を向けまたすぐ視線を本に落とす見知った顔ぶれ……そしていつも通り見ているだけでいつも通りじゃいられなくなる彼女の姿。
はやる気持ちを抑え、そんな彼女の近くへと歩いて行く。

 彼女……天本詩音はいつも通りファンタジー小説の棚の傍で、窓際に置かれた椅子に腰かけ本を読んでいた。
濡れ羽色の三つ編みはちょこんと肩に乗り、落ち着いた赤のフレームの眼鏡越しに文字を追う。
まるでそこに存在するのが当たり前であるかのように周囲と調和している落ち着いた雰囲気が、彼女の服の裾に付けられた図書委員のワッペンの正当性を雄弁に語る。
こちらに気づいたのだろうか。文字を追っていた黒檀の瞳がこちらを向き、くすりと笑みを浮かべてぺこりと小さく頭を下げた。
かっと熱くなった顔を隠そうとくるりと横を向き、誤魔化すように近くにあった本棚へ手を伸ばし赤い表紙の本を取り出す。
何気なく取ったその本の表紙に目を向ける。杖を持った悪魔的なネコが描かれたリアル調の絵の表紙。ああ、これは天本さんとの交流のきっかけとなったあの本だ。





 あの日俺は気分転換のために図書室に来ていた。当時の俺はスランプかなにかで所属していた野球部での活動があまり振るわず、当然練習もあんまり身が入らず。
そんな俺を見かねたのか顧問の山田監督は気分転換を勧めてきた。周りからの視線も気になっていた俺はありがたくその提案を受け取ることにした。
もともと俺は中学時代はスマホでネット小説をよく読んでいたが、最近スマホで検索するのはそれっぽい送球のテクニックとかちょっと疑わしいトレーニングとかそれぐらい。
前はけっこう紙の本を読んでいたが今はもうめっきりだ。ましてや図書室には高校に入ってから2年、1度も行ったこともなかった。

 そうか、俺は今までそんなに野球にイッショウケンメイになれてたんだな、なんてことをしみじみ思いながら図書室に足を踏み入れる。
勝手のわからない棚の迷宮の間をうろうろと歩き回り、ついに目当てのファンタジー小説の棚を見つけた。そうして俺はそこで「ネシャナータアーズ」という本を見つけた。
中学の頃から本棚にあったのを見かけたことはあったが実際に読んだことはなかったな。俺はその本を取り出して受付に本を渡し、ちょっと分厚いその本を手に持って教室へと戻っていった。
そういえば受付の図書委員は同じクラスメイトだったな、などとどうでもいいことを考えながら俺は早々に教室に戻り、自分の席に座って休み時間をその本を読み進めるのに使うことにした。

 ページをめくり、目を動かし、ページをめくる。嬉しいことにその本はけっこう……かなり面白かった。
序盤からすでに読むのに夢中になってしまい、部活仲間の友人が近づいてきても声をかけてくるまで気づかなかったぐらいだ。

「よー守田、珍しいもん読んでんじゃん」

 声に驚いて横を向く。部活ではピッチャーをやってる鈴木が興味深そうな顔で机の上の本を見ていた。
俺はキャッチャーでこいつはピッチャー。つまり俺とこいつは相棒ってわけだ。気の置けない仲ってやつである。

「俺も昔は図書室で本とか借りるとかしてたなぁ、にしてもお前が野球以外のことに興味持ってるとか珍しいな?」
「ちょっと気分転換したくてさ、監督にアドバイスされたってわけ」
「なるほどねえ。それ面白かったら教えてくれよ、俺もちょっと読んでみたくなった」

 そんな軽い話をしてたら予鈴が鳴った。品行方正で優等生な俺たちは時計に目を向ける。それじゃあまたと言って鈴木は自分の席に戻っていった。

 そのままだらだら眠たくなる授業を受け、上手くいかない部活の練習をせっせとこなし、荷物をまとめて家路につく。帰りの電車を乗り継ぎ見知った道を歩き平凡な玄関の前に到着。
ただいまー。おかえりー。テキトーな挨拶とそれに返ってくる母のテキトーな挨拶をBGMにバッグを下ろし身支度を済ませる。
ぼへっと空き時間をスマホを眺めて過ごし、帰ってきた父を迎え、晩ご飯をいただき、食器を片付け、廊下に置いたバッグに手を突っ込み本を持ち出す。
本を片手に自室に戻ってベッドにどてっと倒れこみ、そのまま読書としゃれこんだ。
魔法のバトル、異界のモンスター、機械文明を捨てた猫のお告げの夢、非日常的ながら物語はするする脳に入る。気づけば部屋の時計の針は12時を指していた。
続きはまた明日読もう。読み終わって返却したらあいつに勧めてみるのもいいかもな。そんなことを思い眠りについた。

 それから数日、ついに俺は第1巻を読破した。図書室に向かいちゃちゃっと返却手続きを済ませる。
このまま2巻を借りようか、そう思った俺の脳裏に部活の監督の言葉がよみがえる。ここから数日間練習スケジュールをちょっと厳しくするぞ、と。
それなら忙しくなりそうだし今は借りなくてもいいかもしれない。どうせ帰っても本を読む間もなくすぐ寝てしまうだろうし。
もとより本分は野球だ。そのためにはこの小さな楽しみはちょっと我慢することにしよう。

 そして監督直々の指導によるきっつい特訓が始まった。
筋肉の節々が悲鳴をあげる。
時間が流れる速さが普段の5分の1に感じる。
飛んでくる球の速さは普段の2倍に感じる。
目の前でボールをこちらに投げ続ける鈴木の顔も正直こわい。疲れと気合で眼力ぱっちり。
練習終わればお互いへとへと、休み時間に話しかけてくることもなくなりイビキをかいて寝てすらいた。

 しかしどんなつらいこともいつかは終わるもの。1か月のような数日が経ち、地獄のような特訓もついに終わった。
終了の号令と部員たちの歓喜の雄叫びを聞きながらどっと地に伏せる。ボールの受けすぎで真っ赤に膨れた手が地面にぶつかって痛い。
その日は帰ってご飯を食べたらすぐ寝てしまった。泥のような眠り、それから起きたきっかけも飛んでくる大量のボールとそれにまつわる物語の夢。まったくこんなところまで野球まみれか。

 しかし夢とは不思議なもので起きてからしばらく経つとおおよそを忘れてしまうもの。
朝食を食べ終わったころにまだ覚えていた夢の内容は仙人みたいな格好でお告げを言っていた監督の姿ぐらいだった。あれはさすがにインパクトが強すぎた。少し思い出し笑いをしてしまう。
そういえば前にもお告げにまつわる事をどこかで読んだな、そう思った俺の脳内に一つの思い出が蘇る。魔法のバトル、異界のモンスター、機械文明を捨てた猫のお告げの夢。
そうだ、あの本の続きを借りよう!いまだ寝ぼけた頭で今日の予定を立て、俺は意気揚々と学校へ向かった。

 半ば眠りながら授業を受けまた昼休みが訪れる。
俺は少し浮足立ちながら図書室に向かい、ドアノブをひねる。
そのまま記憶を頼りにふらふらと歩きファンタジー小説の棚を目指して歩を進めた。
そして俺はようやく目当てのものを見つける。「ネシャナータアーズ」の第二巻。赤い表紙の第1巻と違って青い表紙だったから少し探すのに時間がかかってしまった。
今日は優雅にゆったりとこれを読みながら余暇を過ごそう。そんなことを考えながら伸ばした手が、同じく本を取ろうとした手と触れた。
お互いにぱっと手をちぢめる。びっくりして隣を見ると向こうも少し驚いた顔でこちらを見ていた。

 そこにいたのは眼鏡をかけた三つ編みの生徒。ふと思い出す。前に第1巻を借りたり返したりした時に受付をしてた図書委員だ。
しかも同じクラスのクラスメイト。今日は他の人と受付担当を交代しているのだろうか?

「ご、ごめん」

 思いがけない出来事に少し慌てながら謝罪を述べる。
クラスメイトは平然とした様子でこちらを見て、やがて口を開いた。

「あなたもそれを借りるんですか?」
「え?うん」

 そう答えるとクラスメイトは

「じゃんけんをしましょう」

 そんなことを口にした。

「へ?」

 思わず聞き返す。

「勝った方が借りられるってことで」

 こういう場合って基本片方が譲ったりするものじゃないのか?というか図書室ではお静かにとか言う立場の人じゃないのか?

「まあいいけど……」
「それでは始めましょう。じゃーんけーん」

 ぽん。
俺が出したのはグー。硬い岩だ。鍛えられたがっしりとした手だ。
向こうが出したのはチョキ。鋭い刃だ。ほっそりとした小さな手だ。
ようするに、俺の勝ちである。

「……」

 クラスメイトはじっと手を見ている。神妙な顔だ。なんだか綺麗な人だな。そんなことを思っているとその口がまた開かれた。

「もう1回やりましょう」

 なるほど。
この人もしかして愉快な人なのか?

「いいよいいよ、そっちが先に借りて」
「ほんとですか!?」

 クラスメイトが満面の笑顔になった。思わず俺は息を吞む。
ん?なんで俺は息を吞んだんだ?脳のリソースをちょっと動かそうとしたが、そのリソースは別のことに使われた。

「ありがとうございます!この本面白いですよね、とくに序盤の連携魔法のシーンが……」
「あのシーンすごかったよな、あそこで出てきた主人公のあのセリフが……」

 同じ話題を話せる喜びを俺たちは分かち合った。
同時に2巻を取ろうとした、それはつまりお互いが1巻を読み終わった分だけの知識を持っているという事なのだ。
そのまま俺たちはぺちゃくちゃと話し続け、他の図書委員から白い目でじっと見られたその時になってようやく俺は慌てて話を打ち切った。
ちょっと焦り気味な俺に対し、クラスメイトは他の図書委員を見て納得したような顔をした後平然と戻っていた。この人やっぱり愉快な人なんじゃないのか?

 そんなこんなで俺はクラスに戻った。そして俺は気づく、手ぶらである。せっかくだから他の本でも借りてくればよかった。
しまったなぁ、机に座り頬をかきながらそんなことを考えているとこちらに歩いてくる鈴木の姿が見えた。

「よー、お疲れさん。いやぁきつかったな練習……」
「おつかれー、1年の頃もさすがにあんなのはなかったぞ」
「だよなぁ、そういえば前読んでたあの本どうだった?面白かった?」

 ああ、面白かったぞ、お前も読んでみるといい

「うーん、まあまあってとこかな。わざわざ選んで読むほどじゃないと思うよ」

 あれっ?

「まじー?お前けっこうのめりこんで読んでたのにな、まあ序盤は良いけど後半が微妙ってのもよくあることか」

 そんな感じのどうでもいい話を続ける、話しながらも俺は脳内で新たに生まれた謎について頭を巡らせていた。

 なんで俺は鈴木に本を勧めなかったんだろう?予鈴が鳴る。鈴木は席に戻っていった。
授業中も上の空で考え続ける。ペンをぐるぐる回す。ペン先を眺める目がぐるぐる回り、頭もぐるぐる回る。

 やがて俺は理解した。
なんだ、簡単な理由だ。
俺はこの「ネシャナータアーズ」について語り合えるという特権を俺と彼女の間だけのものにしたかったのだ。

 部活の友人で相棒で話も合いそうな鈴木にも勧めた方が語れる人数が増えてよかったのでは?その通りだ。
しかしそうするといまこの学校で「ネシャナータアーズ」について同じペースで語り合える人数は2人から3人になる。
しかもどれもわりと俺と近しい人間、そうすると自然と語り合うときも3人揃ってすることになるだろう。ほんとにそうか?まあいい、とにかく俺はその状況が好ましくないと感じたわけだ。
つまりそう。独占欲だ。彼女、天本詩音と会話する時間をひとりじめしたかったのだ。
俺は教科書とノートが置かれた机につっぷし、両手を頭の上を過ぎて交差させ、手のひらで赤くなった耳を覆った。



 それから俺たちはよく話をするようになった。もちろん図書室で、小声でだ。
同じクラスのクラスメイトだから教室で話をすればいいのだろうが、好きな女の子と教室で堂々と話す度胸は俺にはなかった。
向こうも教室にいる間はこちらに話しかけてきたりはせず黙々と本を読んでいるだけ。
ちょっと寂しくはあったが、それ以上に俺は天本さんが本を読むその姿を脇目で見るのが好きだった。
本を読み込む真摯な目付き。よく見るところころ変わってる口元。
周りからの視線もあるのであまり見すぎないようにしてはいたが、その表情はちょっと見ただけでも脳裏に焼き付いた。

 そんな俺たちも図書室にいる時は和気あいあいと過ごしていた。もちろん声は抑えていたぞ、他の図書委員から怒られたくない。
俺たちが図書室でする話は「ネシャナータアーズ」についての話が多かった……というかほぼ全てだった。
だから向こうの身の上なんて知らない。ただ会話ができるだけで十分だった。

「まさか主人公があんな選択するとは思わなかったな、てっきり治るものかと……」
「そのへんシビアですよねこの作品、執事さんもだいぶかわいそうです」

 天本さんが1巻先に読んで、俺が後からその巻を読む。

「うあぁ……トラガワケダマ……よくこの話するの我慢できたな……?」
「私も家で読んでた時思わずうあぁって声出ました、でもよくよく考えてみれば名前が名前ですしね……」

 展開に翻弄されうめき声をもらしながら図書室で本を読む俺、それを横でニヤニヤ眺めて口をはさむ天本さん。
盛り上がりの無くくだらない、だらだらしてて安心できる日常の一フレーム。その時間がいつしか俺にとってとてつもなく大事なものとなっていた。





 そんな日常を過ごして約3か月。今日は金曜日。部活はともかく授業は週で最後の日。
俺は悩みに悩んだ末、一つの決意をした。
決めた。
今日、天本さんを水族館でのデートに誘う。

 ……わかってる、これは大きな賭けだ。
正直言ってすごく怖い。ものすごい迷惑になるかもしれない。汚いものを見る目で見られるかもしれない。もう話せないかもしれない。
俺の欲にまみれたこんな行動のせいで今の関係性を壊すことになってしまうかもしれない。
でも……向こうもこんなその辺の男子高校生と長いこと一緒に遊んでくれたんだ。それに最近は本以外の世間話をすることも多くなった。ちょっとぐらい期待したっていいだろう?
部活の監督も言っていた、若人たるもの為すべき時には覚悟を決めて……いや、こんな身勝手な期待や受け売りの言葉で誤魔化してはいけない。俺が選んだんだ。俺が今以上の関係を求めたんだ。

 手に取った「ネシャナータアーズ」の第一巻を棚に戻す。表紙の猫は気だるげにそっぽを向きこちらを見守ってはくれない。
俺は一つ深呼吸をした。
そんな俺を見て不思議そうな表情をした天本さんはちょうど本を閉じ、こちらに声をかけてきた。

「おや、守田さん。今ちょうど11巻を読み終わりましたよ。借りていきます?」
「あ……天本さん」
「はい、どうかしましたか?」

 天本さんの前へ歩いていく。背中を汗が流れる。怖い。やる。決めたんだ。
俺はポケットに手をつっこみ中の物を取り出した。手にしたのは、あの海橋水族館のイルカショーの予約チケット。
両手にそれを持ち、前へ突き出し、頭を下げる。

「俺と……今度の日曜日、一緒に水族館に行ってくれませんか?」

 耳の奥で血が勢いよくどくどくと流れる。脳内がぐるぐると渦巻く。ああ、言ってしまった!なんでこんなことをしてしまったんだ!今までの関係のままで良かったのに!
前を見たくない!怖い!今すぐ逃げ出したい「いいですよ」 俺はぱっと頭を上げた。

 天本さんはチケットを両手でそっと掴み、口元を隠すように持ち、目を細め優しい声色で言った。

「集合時刻はいつにします?」

 脳が、凄まじい速度で、動き出す。必死に口を動かそうとする。

「じゅ、10時で!午前10時でお願いします!」
「わかりました、当日はよろしくお願いしますね」

 う……うれしい!頭がよろこびでいっぱいだ。まずい、俺今ぜったい変な表情してる!こんな表情見せたくない!かっこつけたい!

「そ、それじゃあまた!日曜日に!」

 ぱっと後ろへ振り向き、ふらふわした頭のまま俺は情けなく教室へ逃げ帰っていった。





 少女は早歩きで去っていった少年の後ろ姿を見送っていった。
そして顔を本棚へ向けたまま数分待ち、それから椅子に置いた「ネシャナータアーズ」の11巻を拾い上げ受付に向かって返却手続きを済ませた。
また本棚の前に戻ってきた少女は「ネシャナータアーズ」の12巻を手に取り、

「うっ」

 思わず声を漏らした。
手に取った本のその表紙には、ドクロの杖を持ち悪人面で羽が生えている少年の絵が描かれていた。
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