ヴィブロスとにゃんにゃんする話


「トレっちー、私とにゃんにゃんしよっ♡」

 その言葉に、俺は飲んでいたコーヒーを思いきり吹き出してしまう。
 原因となった張本人が正面にはいなかったため、被害がないのは不幸中の幸いだった。
 茶色よりの青毛のツインテール、青と水色のリボン、左目の泣きぼくろ、特徴的な猫のような口元。
 担当ウマ娘のヴィブロスは、咳き込んでいる俺を、心配そうな目で見つめていた。

「トッ、トレっち? 大丈夫?」
「ごほっ! ごほ! ……うっ、うん、ちょっと変なところに入っただけだから」

 しばらくして、何とか呼吸を整えて、改めて俺はヴィブロスと向き合う。
 期待に満ち溢れた瞳と、人懐っこい笑顔。
 耳は手招きするようにぴょこぴょこと、尻尾は待ちわびているようにゆらゆら揺れている。
 ……どうにも、今の彼女にとんでもないことを口にした、という自覚はなさそうだ。
 そもそも、いくら何でもそんなことを頼んでくるほど、良識のない子ではない。
 深呼吸一つ。
 俺は頭の中で慎重に言葉を取捨選択しつつ、口を開いた。

「えっと、ヴィブロス、まずさっきのお願いをもう一度聞いても良いかな?」
「はーい……トレっちにね、私とにゃんにゃんして欲しいのー♡」

 ヴィブロスは両手を合わせて、きらきらとした笑顔でそうおねだりする。
 残念ながら、まずこの時点で聞き違いという可能性は消えた。
 冷静に考えるとここがトレーナー室でなければ一発でクビが飛んでいた可能性がある。
 背中にじっとりと冷たい汗を流しつつ、俺は再び、彼女に問いかけた。

「『にゃんにゃん』って、どういう意味だかは知ってる?」
「うん、知ってるよ?」

 何でそんなことを聞くのか、と首を傾げながら、ヴィブロスは答えた。
 思わず、天を仰ぎそうになってしまうが、まだ早い。
 藁にも縋る思いで、年頃の女の子に聞いて良いのかと悩みながら、俺は質問を口にした。

「じゃあ、どういう意味かな?」
「それはね──」

 ヴィブロスは、一瞬だけ言葉を溜める。
 そして、ぱぁっと花咲くような笑顔を浮かべて、言葉を紡いだ。

「猫みたく可愛がられたり、甘やかされること、でしょう?」

 神はいた、そう思った。
 俺は心の底から安堵のため息をついてしまうのであった。


  ◇


「それでいいでしょ? この間のレースだってちょー頑張ったし、ご褒美が欲しいなあ~?」
「……ちなみに、どういうことをして欲しいの?」
「猫ちゃんみたいにー、膝の上に乗って撫でてもらったりー、おやつを食べさせてもらったり―」
「…………そういうのはちょっと」
「……だめ?」
「うっ、だっ、だめかな、心苦しいけど、他のことで──」
「……そっかあ、じゃあ今度お姉ちゃんとシュヴァちに、トレっちとにゃんにゃんするための相談を」
「あー! 急にヴィブロスとにゃんにゃんしたくなってきたなー!」

 慌てて大声を上げて、ヴィブロスの行動を阻止する。
 そんな相談をされたら、どこに飛び火してしまうかわかったもんじゃない。
 苦渋の決断ではあるが、甘えん坊チートデイの前借りだと思うことにする。
 突然の手のひら返しに、彼女はきょとんとした顔をするものの、すぐに柔らかな笑みに切り替わった。

「やたっ、じゃあトレっちー♪ 早速お願いしまーす☆」
「はあ……仕方ないなあ、それで、何をすればいいのかな」
「まずは、そっちのソファーの端っこの方に座って欲しいな」
「了解」

 ヴィブロスに言われるがまま、俺はソファーの端の方へと腰掛ける。
 すると、彼女はご機嫌な足取りで、とてとてと小走りで駆け寄り、反対側へ飛び乗るように座った。

「……えへっ」

 そして、ころりと、俺に向けて身体を傾ける。
 途中、彼女のさらりとした髪が鼻先を掠めて、ふわりと漂う甘ったるい匂いに思わずドキリとしてしまう。
 ぽすんと、俺の膝の上に着地する、ヴィブロスの頭。
 彼女は珍しく照れたような笑みを浮かべて、忙しなく耳を動かした。

「ちょっと恥ずかしいけど、うん、けっこー快適かも?」
「……そりゃ良かった、これで満足してもらえると俺としては助かるんだけど」
「だーめ♡ にゃんにゃんするって言ったんだから、今日はしっかりとやってもらいまーす」
「……わかったよ、じゃあさっき言ったみたく、頭を撫でれば良いのかな?」
「まずは、ね?」

 ぱちりとウインクを飛ばして、ヴィブロスは言う。
 抜け目がないなあと思いながらも、俺は観念して、彼女の頭に手を伸ばした。
 そして、艶やかで、さらさらとした彼女の髪に、触れる。

「……んっ」

 ヴィブロスの耳が、ぴくんと震える。
 身体が少しばかり強張って、きゅっと縮こまってしまう。
 しかし、一度、二度と、彼女の頭の天辺を撫でていく毎に、彼女の身体から余計な力が抜けていく。

「ふあ……トレっち、撫でるのじょーず」
「そっか、えーっと、触って欲しいところ、ある?」
「んー、お耳を触って欲しいかなー、軽く揉むような感じで☆」
「……カバーは外す?」
「トレっちが外してくださーい」
「わかった、痛かったりしたら、すぐに言うこと、いいね?
「はーい♪」

 良い返事をするヴィブロス。
 そんな彼女の耳カバーに俺は手をかけて、ゆっくり、そして丁寧に脱がしていく。
 しゅるりと音を立てて、ちょっとずつ、蒸れてしっとりとした生の耳が露になる。
 そして、ふわりと微かな汗の匂いが香る。
 少しだけ頬を染めている彼女の顔を見て見ぬふりをして、俺は恐る恐る彼女の耳に触れた。
 髪の毛とはまた違う手触りで、とても触り心地が良い。
 そしてそのまま、出来るだけ優しく指先を這わせたり、揉みほぐしていく。

「ぴゃっ……ふっ……あっ……うー、気持ちいー……」

 最初は驚いたようだったが、ヴィブロスはあっさりと受け入れて、顔を緩める。
 太腿にかかる重さが、さらにずっしりとしたものへとなり、彼女がリラックスしているのを肌で感じ取った。
 しばらくの間、じっくりと、彼女の頭を撫でて、耳をマッサージして、たっぷり甘やかしていく。
 ……もしかしたら、疲れがたまっていたのかもしれない。
 自省しながらも、今日は出来るだけ彼女の言うことを聞いてあげようと、心に誓った。

「他にして欲しいこと、ある?」
「顎の下をー、ちょっとくすぐるように触って欲しい、かも」

 また妙なお願いだな、と思いながらも、素直に頷く。
 俺は両手で、彼女の柔らかくすべすべとした頬の当たりに手を添えた。
 そして触れるか触れないかの距離で、指先をこちょこちょと動かしていく。

「ひゃふ……んんっ……くすぐった……いっ、けど……ぞくぞくしちゃ、あっ、う……♡」

 身をよじりながら、甘ったるい声を響かせるヴィブロス。
 その顔は赤く上気し、目はとろんと蕩けて、荒い息を吐いている。
 …………いや、これは彼女の希望通りに、顎の下を触っているだけ、にゃんにゃんでは決してない。
 ただ、色々とまずい気がしてきたので、彼女に声をかけた。

「ヴィッ、ヴィブロス、他のところは良いのかな?」
「ふえ……えっと、それなら、ね」

 ヴィブロスは、ぽーっとした様子で、ごろりと少しだけ身体を動かした。
 身体ごと天井を向いて、ばちりと、俺と目が合う。
 すると彼女はへにゃりと、融けたような笑顔を浮かべて、両手をお腹に添えた。

「とれっちに、おなか、なでてほしい……にゃあ♡」
「そっ、それは」
「とれっちー、おねがぁーい♡」

 ヴィブロスは虚ろな瞳のまま、両手を掲げて、足をだらんと伸ばしていた。
 それはまるで、いわゆる『へそ天』のように見える。
 猫などの動物がリラックスしている時や、服従の意思を示す時などにとるポーズ。
 しかし、この場合、服従してしまっているのはどちらなのだろうか。
 俺は彼女の言葉に逆らうことが出来ず、誘われるように、ほっそりとしたお腹に手を伸ばしてしまう。
 そして、すりすりと、柔らかなお腹を軽く撫で上げる。

「あはっ、とれっちのて、おっきくて、ぽかぽかで、すきー……♡」

 ヴィブロスは、幸せそうな笑みを浮かべて、目を細めるのであった。


  ◇


「すぅ、すぅ」
「ふふっ、気持ち良さそうに寝ちゃって……すいません、いつもいつも」
「いや、これくらいはお安い御用だよ、ヴィブロスも、頑張ってるからね」
「……ええ、本当に、出来る子だとは思っていたけど、ここまでだったとは、思っていませんでした」

 嬉しそうな、そして少し寂しそうな目でヴィブロスを見ながら、彼女は言った。
 青毛のロングヘアー、菱形に少し垂れた流星、右目の泣きボクロ。
 ヴィルシーナは、妹であるヴィブロスの頭をそっと優しく撫でつけた。
 
「……んんっ、あれ、おねえちゃん?」
「あっ、ごめんなさい、起こしちゃったかしら」
「今さっき、君を尋ねて来てくれたんだよ、少し聞きたいことがあるって」

 ヴィブロスはむくりと起き上がり、背伸びをする。
 そして大きく欠伸をする彼女を見て、ヴィルシーナは困ったような笑みを零した。

「もう、ヴィブロスったら、人前で大口開けるのは、セレブに相応しくないわよ?」
「あっ……そーだね、ごめんなさい、お姉ちゃん」
「でも貴方がそんなにのんびりするなんて……今日はトレーナーさんに、何をしてもらったの?」
「うん、今日はね」

 その瞬間、凄まじく嫌な予感がする。
 慌ててヴィブロスの口を塞ごうとするものの、当然間に合うわけもない。
 無情にも、純粋な彼女の言葉は、ストレートにヴィルシーナへと叩きつけられた。

「────トレっちに、にゃんにゃんしてもらったんだぁ♡」

 神は死んだ、そう思った。


  ◇


 俺の必死の弁明と、ヴィブロスのフォローのおかげで、何とかヴィルシーナの誤解は解けた。
 そして、その過程で、もう一つの誤解も解くこととなったわけで。

「……あの、トレっち、その、私知らなくて、ごめんなさい」
「いや、俺もちゃんと、それとなく説明するべきだったから、お互い様ということで」

 顔を真っ赤に染め上げて、俯くヴィブロス。
 彼女はヴィルシーナへの説明の中、にゃんにゃんの正しい意味を理解した。
 ……いやまあ、あくまで俗語で、正しいわけじゃないんだけど。
 それに案外、ヴィルシーナも耳年増というか、それはさておき。

「……」
「……」

 気まずい、妙な空気が、トレーナー室に流れる。
 ヴィブロスは手を揉みながら、ちらちらとこちらに視線を送っては、また俯くを繰り返した。
 事が事だ、年頃の彼女にとっては、とても衝撃的なことだったのだろう。
 俺はあえて何も言わずに、彼女のことを待ち続ける。
 やがて、彼女は大きく深呼吸をして、立ち上がった。

「…………トレっち、ちょっと耳を貸してくれる?」
「ああ、構わないよ」

 意を決したような、真剣な表情でヴィブロスは近づいて来て、俺の横に立つ。
 そして、彼女は少し背伸びをして、俺の耳元に、そっと囁くのであった。

「トレーナーさんなら────『そっち』のにゃんにゃんも歓迎だよっ♡」
お知らせ
実務でも趣味でも役に立つ多機能Webツールサイト【無限ツールズ】で、日常をちょっと便利にしちゃいましょう!
無限ツールズ

 
writening