ずぶ濡れになったサクラローレルがトレーナーの家でシャワーを借りてゆるゆるな服を着る話


「ふう、ちょっと足を伸ばし過ぎちゃったかな」

 自主トレの、軽いランニング。
 きれいに咲き誇る桜に目を奪われてみれば、周りには見慣れぬ風景。
 私は一度、近くあった公園で水分補給をし、スマホで位置情報を確認する。

「……ああ、この辺りだったんだ、すると」

 スマホを持って、くるくると回りながら、ある方角へと視線を向けた。
 いくつか建物が間にあって見ることは出来ないけれど、あの辺りにはトレーナー寮がある。
 私も何度か、連れていってもらったことがあった。
 トレーナーさんは今日お休みだし、まだ寝ているだろうか、それともお出かけだろうか。

「ふふっ」

 休日を満喫するトレーナーさんの姿を想像して、思わず、笑みが零れた。
 ちょっと尋ねてみようかな、という悪戯心が出て来るけど、そこは自制する。
 急に来られても迷惑だろうし、何より彼の休みを邪魔したくない。
 そもそも、いるかもわからないのだから、行くべきではないだろう。
 それに、休み明けになれば、いつでも会えるのだから。

「んっ……! それじゃあそろそろ戻ろうかな」

 ぐっと背伸びを一つ、私は帰り道のルートを、頭の中で構築していく。
 そういえば、あそこの路地にも桜があったな、そこを通って────。
 その時、鼻の頭にぽつりと、冷たい水滴が落ちた。

「えっ?」

 ぽつり、ぽつりと、次々に水滴が落ちて来る。
 慌てて空を見上げれば、いつの間にか、重たそうな真っ黒な雲で覆われていてた。
 雨足は瞬く間にその勢いを増していき、あっという間に、叩きつけるような豪雨へと変わる。

「きゃっ……!」

 一瞬でずぶ濡れになってしまった私は、慌ててその場を駆けだした。
 近くに雨宿りが出来そうな場所なんて見当たらない、この辺りのお店の位置もわからない。
 スマホで調べようにも、こんなところで出したら壊れてしまう。

 唯一、はっきりとわかっている場所といえば。

 いないかもしれない。
 もしかしたら、来客中なのかもしれない。
 でも、こういう、私が困っている時は、あの人は必ず、待っていてくれる。
 何の根拠も存在しない、ただの私の妄想。
 でもなぜか、私の中には確信めいた気持ちがあって、脇目もふらず向かっていた。


  ◇


「ふぅ……」

 頭から暖かいシャワーを浴びて、思わずため息が漏れてしまう。
 昇り立つ白い湯気に包まれながら、私は浴室を見回す。
 見たこともないメーカーのシャンプーにボディーソープ。
 飾り気のないデザインの風呂桶や椅子に、ハンドタオル。
 ……あっ、このボディスポンジは私がこの間オススメしたやつだ。
 そして、男性用の髭剃りやシェービングフォームを見て、私は思い知らされる。

 私は今、男の人の家で、一糸まとわぬ姿でいるんだ、と。

「ローレル、開けて大丈夫かな?」
「ひゃっ、ひゃい!?」

 浴室の外から突然声をかけられて、変な声で返事をしてしまう。
 どきどきと音を鳴らす心臓の音を聞きながら、私は思わず手で身を隠した。
 きぃっと、ゆっくり脱衣所の扉が開かれる。

「ごめんね、驚かせちゃって……着替えここに置いておくから」
「いっ、いえ、あの、何から何まで、ありがとうございます」
「気にしないで、シャワーはゆっくり浴びてて良いからね」

 そう言うと、トレーナーさんはパタンと扉を閉めて、離れて行った。
 大きくため息をついてから、先ほどの自分の行動に、呆れてしまう。
 シャワールームにいる私の姿なんて、見えるわけもないのに。
 わかっているのに、身体は、心は、落ち着かなくて、そわそわとする。
 顔が熱くなるのは、流れるお湯のせいだと、そう思いたい。

「…………身体はちゃんと洗っておこう」

 これは、乙女もにとって当然な身嗜みの話であり、全く他意はないのである。
 ないのである。


  ◇


 公園で豪雨に襲われた後、私はトレーナー寮へと走った。
 アポも取らずに、トレーナーさんの部屋に向かって、インターホンを鳴らした。
 彼は全身ずぶ濡れの私の姿を見て、目を見開いて驚いていたけど、優しく迎えてくれた。
 
『とりあえず、シャワー浴びておいで』

 家の中が濡れるのを全く気にせず、私を浴室まで案内してくれた。
 遠慮もあったけれど、下着までびしょびしょになって、冷え切った身体にその誘惑は耐え難い。
 結局、私は素直にシャワーをお借りして、今に至るのだった。

「……うん、そろそろいいかな」

 十分に身体は温まったし、身体もしっかりときれいにした。
 ジャージが乾燥するまではいさせてもらって、それから傘を借りて帰ろう。
 お礼代わりに晩御飯でも作ってあげようから────そう考えてた矢先だった。

 突然、浴室が真っ暗になった。

 どきんと、心臓が跳ねあがる。
 何が起こったのか理解出来ず、きょろきょろと周囲を見回した。
 脱衣所の電気もまとめて消えている、微かに聞こえて来た洗濯機の音も聞こえない。
 これは、まさか。

「……停電?」

 シャワーのお湯はガスであるためか、暖かいままなのが不幸中の幸いだった。
 私はとりあえずシャワーを止めて、足下に気を付けながらゆっくりと浴室を出る。
 真っ暗でタオルの位置も良くわからず、私は裸のまま手探りで脱衣所の様子を探った。
 その時、トントンと、控えめな音で扉がノックされる。
 再びびっくりして、手で身体を隠すと、外からトレーナーさんの声が聞こえて来た。

「ローレル、大丈夫?」
「えっ、あっ、はい……えっと、停電、ですか?」
「うん、そうみたい、懐中電灯を持ってきたから、ちょっとだけドアを開けるね?」

 そう言う、小さく音を立てて、扉が少しだけ開く。
 緊張しながら見つめていると、隙間から光を放つ懐中電灯が現れた。
 私がそれを、手を伸ばして受け取ると、すぐに扉は閉まってしまう。
 ……なんで、私はちょっと残念に思っているんだろう。

「悪いけどそれを使って着替えてくれる? 俺はリビングで他の灯りを探してるから」
「わかりました、ありがとうございます」

 トレーナーさんの足音が、少しずつ離れていく。
 慣れない場所で、真っ暗の中、懐中電灯一つ。
 本来なら不安になる要素ばかりだけど、何故か今の私は、そうでもなかった。
 多分、トレーナーさんが近くにいることがわかっているからだろう。
 私はタオルを見つけだして、そのふわふわで肌触りの良い感触で、身体を包む。
 ちょっと湯冷めして肌寒いけど、心の中はぽかぽかと暖かった。


  ◇


「シャワーありがとうございました……それは、ランタンですか?」
「ああ、電池式でそんな明るくはないけどね」

 以前、地方のレース場を視察したときに貰ったんだ、とトレーナーさんは言う。
 テーブルの上でゆらゆらと光を放つそれは、確かに灯りとしては心許ない。
 ただ、見ていてなんとなく落ち着くので、私は嫌いではなかった。

「温かいお茶を用意したから、良かったら飲んで」
「はい、いただきます」

 私は、ソファーに座るトレーナーさんの隣に腰かける。
 そして、暖かそうに白い湯気を立ち昇らせる緑茶を手に取って、一口。
 口の中に熱が、そして適度な渋みと甘さが、じんわりと広がり、気持ちが落ち着いていく。
 ほっと一息入れて、私は窓の外を眺めながら、言葉を紡いだ。

「……ひどい雨ですね、雷まで」
「ああ、早く止むと良いんだけど」

 外は、私がここに来た時とは比べ物にならないほどの、激しい雨になっていた。
 さらには時折、空がぴかりと光って、恐ろしいほどの轟音を鳴り響かせる。
 下手に、自分の部屋に帰ろうとしていたら、大変なことになっていたかもしれない。
 そう思って、ぶるりと震えてしまう。

「……寒い?」
「いっ、いえ、大丈夫です…………後、服も、ありがとうございます」
「ああ、俺のヤツだから、サイズが全然合ってなくて申し訳ないけど」

 私は今、トレーナーさんのお洋服を身に纏っていた。
 無地のTシャツに、これまた無地のハーフパンツ。
 流石に私とトレーナーさんでは体格がまるで一致しておらず、上も下もブカブカ。
 でも、なんだか、とても良い着心地だった。
 ゆったりと優しい感じが、なんだかトレーナーさんに包まれているようで。
 思わず、顔が綻んでしまう。

「……えへへ」
「ん? どうかした?」
「なんでもありませーん」

 突然、笑い出した私を、トレーナーさんは不思議そうな表情で見つめる。
 私は誤魔化すように茶化した言葉を返して、もう一口お茶を啜った。
 ……さて、ガスは使えるみたいだし、ちょっとしたお料理くらいなら出来るだろう。
 お茶を飲み干して、気持ちは十分、私は勢い良くその場で立ち上がった。

「よし、それじゃあ今日のお礼代わりに、晩御飯の支度を────」

 その瞬間。
 ずるりと、ハーフパンツのウエスト部分が、腰を滑り落ちた。
 下着は選択中で、トレーナーさんからそこまで借りるわけにもいかず、その下は。

「きゃあっ!?」

 慌てて、ずれ落ちるハーフパンツを両手で押さえる。
 かなり際どいところまで下がってしまったが、ギリギリのところで止めることが出来た。
 ちらりと、トレーナーさんの方を見やると、彼は気まずそうにそっぽを向いてくれている。
 かーっと顔が熱くなりながら、ハーフパンツをちゃんと履き直して、私はぽすんとソファーに墜落した。
 
「……オサワガセシマシタ」
「まあサイズがね、ローレルは線が細いから」

 トレーナーさんは苦笑いを浮かべながら、私のフォローをしてくれる。
 ハーフパンツのウエストはゴム紐だったが、それでも私には余ってしまうサイズだった。
 だから、このままだとあまり大きく動くことは出来ない。
 ……あんなところ、今はまだ、トレーナーさんに晒すわけにはいかないから。
 そして、それを考えると、急にシャツの胸元が、心許なく感じてきてしまう。
 視線を落とせば、襟ぐりから覗く、私の素肌。
 そこには、あまり豊かとはいえない、なだらかな双丘と────。

「……っ」

 きゅっと、襟ぐりを締める。
 妙に服の隙間が気になってしまい、私はぎゅっと身体を縮こませてしまった。
 ……どうしよう、これじゃあ晩御飯の支度なんて、出来そうにもない。
 その時、ふわりと、頭を柔らかく撫でる、硬い手のひらの感触。
 あったかくて、優しくて、とても心地良い。
 見れば、トレーナーさんが穏やかな微笑みで、私のことを見つめていた。

「あんまり気を遣わなくても良いよ、ローレル」
「……トレーナーさん」
「……まあ、あと、それに、だなあ」
「……トレーナーさん?」
「その、冷蔵庫の中に、何にも入ってないから、そもそも晩御飯の準備とか無理というか」
「トレーナーさん」

 引きつった笑みを浮かべながら目を逸らすトレーナーさんを、私はジトっと見る。
 全く、食生活には気を遣ってくださいって言ったのに、トレーナーさんったら。
 私は小さくため息をついてから、くすりと、笑みを零した。

「もう、それじゃあ、今日のお礼は、今後しばらくの食生活の見直しということで」
「……スイマセンデシタ」

 さっきの私みたいに、トレーナーさんは取材を告げた。
 その様子がなんだか可愛らしくて、私は顔を口元を緩めてしまう。
 ああ、今度のお休みの日が楽しみになってきた。
 どこで一緒に買い物をしようか、何を作ってあげようか。
 そういうことが頭の中をくるくると回って、それだけで楽しくなってくる。
 その時、ぴこんと、トレーナーさんのスマホから音が鳴った。

「……良し、申請は受け付けてもらったな」
「何の申請なんですか?」
「ああ、雨なんだけど夜通し降り続けているらしくて、停電の復旧もしばらくかかるみたいなんだ」
「えっ」
「だから学園の方に外泊の申請出しといたから、今日は泊まっていきな」
「えっ」
「食材はないけど、カップ麺とかパンはいっぱいあるから何とか……ってローレル?」

 ────頭が、真っ白になった。

 今夜、男の人の家で、二人っきり。
 ぶかぶかの、隙間だらけの服装で。
 もしかしたら、一緒のお布団で寝ることになるかもしれない。

 かあっと、再び顔に血が巡ってしまって、私は両手で頬を隠すように抑える。
 淹れてもらった緑茶よりも、熱くなっている顔。
 きっと、その表情も、とんでもないことになっているのだろう。
 頭の中に、停電して良かった、という思いが湧きおこる。
 それがどういう理由なのかは────今の私には、わからなかった。
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