阿頼耶識とは、生きる糧である


 時間は山ほどあった。
 今まで緊急スクランブルと機体開発に費やしていた時間が、医療と生体科学に費やされる。
 只人であれば突貫の無謀でしかなかったろう、常人であれば諦める前に限界を悟っただろう。
 しかし、彼はキラ・ヤマト。人の夢と業を一身に背負って生まれ、モビルスーツと共に戦い続けてきた者。
 この世で最もモビルスーツを動かす原理を識る者。
 故に、現在の世界で粗製阿頼耶識を完全にリバースエンジニアリングできる人間がいるとすれば。
 彼をおいて他にいないだろう。
 三日月家隣の「セーフハウス」へと招かれた三日月と昭弘は、キラから驚愕の報を聞かされた。

「阿頼耶識の副作用を、治せる?」
「理論は確立できた、不確定要素も可能なかぎり潰した。データもロディやガンダムの蓄積データ、アルミリア総裁のお陰で回収できた厄祭戦の記録もある。あとは、実践あるのみだ」
「マジかよ…」

 二人はキラの"妻"が淹れた紅茶にも手を出せず、目を丸くして特製カンファレンス資料を凝視している。
 糧を得るために捧げた代償を、これから払うかもしれない代償を、取り戻せるのだとキラは言っている。

「わかりやすくいうと、阿頼耶識を複数使うとモビルスーツで『人間ではない動き』ができるようになる。複数の腕を使ったり、テイルブレードを鞭のように使ったり。モビルスーツに乗ってる間は正常に稼働するんだけど、粗製の阿頼耶識では降りても『異常な状態稼働を続けるような命令』が「やるよ、キラ」……三日月、」

 キラの説明を三日月が遮った。「またこの子は……」とキラは眉をひそめる。隣の昭弘も「だろうな」と半ばあきれていた。
 説明を遮られたことに怒っているわけではない。やはりこうなったかという、一種のやりきれなさだった。

「三日月、君は賢い。ただの無鉄砲で言ってるんじゃなく、君なりの勇気と勝算があってのことだと思うよ」
「キラのことも信じてる。絶対できないっていうなら、オレたちに話さないでしょ」
「気持ちは本当に嬉しいよ。でも、だからこそ僕は誤魔化さずに君達に告げなきゃいけない。このオリジナル阿頼耶識置換手術が成功しなかったら…」
「ハッシュの兄貴分と同じになる、か」
「そのとおりだよ、成功率は90%以上にまで高めたけれどね。術中死のリスクだけはほとんどない」

 資料を読み込んでいた昭弘が淡々と確認する。ハッシュの兄貴分を例えに出したのは、キラにもわかりやすい例だからだ。
 ただの一個を植え付ける手術ですら、火星の孤児にとっては人生を懸けた……いや、"賭け"ざるをえない博打。
 失敗すれば生ける屍のレッテルを貼られ、炉端で野垂れ死ぬ運命が待ち構えている。
 むろん、今の鉄華団が家族を見捨てるような可能性は絶無といっていい。オーブの片隅で、細々と暮らすことは可能になるだろう。
 しかし、その境遇に本人たちこそが耐えられない。家族が戦っているというのに座して待つどころか足をひっぱっていると思い込んでしまう。

「どの道、厄祭モビルアーマーと戦ってたら今以上に負担をかけなきゃいけねえ戦場がくるのはわかりきってる。そのときになって『やっておけば良かった』と後悔することはしたくねえ。それにこの手術、一回目の植え付けで失敗しちまったヤツの挽回もできるんだろう?」
「正確には粗製の阿頼耶識で定着しなかった場合だね。誤解を恐れずにいうなら、これは"修理"に近いものだから」
「だったら尚更退くわけにはいかねえ。キラが提案してくれた手術が成功すれば、火星にまで広がれば。俺達がオルガと出会ったような奇跡を、野垂れ死んでいくしかなかった連中も掴むことができるんだ」

 己の場合は、たとえ戦場であろうとも弟と再会して死に目に遭えた。しかしそれすらも敵わなかったヒューマンデブリがどれほどいるだろうか。生きてさえいれば、なんとかなる。昭弘に躊躇う理由などなかった。

「家族に迷惑をかけたくないとかじゃない、俺が家族のためにやれるべきことを増やしたい。アトラの……俺たちの子を、自分の手で抱きたい」
「三日月…」

 話せばこうなるのはわかっていた。
 腕を失った兵士が最も望むのは、再び伴侶や我が子を抱きしめること。キラはオーブの退役軍人会に招かれたことが数度あったが、隻腕の元軍人たちは皆一様に「死ぬまでに再生医療が発達すればと願わずにはいられません」と零していた。
 三日月も同じだった。たまごクラブと一緒に赤ちゃん人形を買い付け、なんとか片腕でも抱けないものかと四苦八苦してる様子は、隣家に隠棲してから何度見掛けたかわからない。
 力だけではない、誰かを想うためにも。
 二人の信念をあらためて告げられたキラには、もう提案を取り下げるという選択肢はなかった。
 腹をくくり、告げる。

「言い忘れてたけれど、手術を受けてもらう条件が複数ある。一つは、最初に受けるのは二回手術の昭弘からだ」
「三つより二つのほうが難易度は少ない、ってか。そりゃそうだな、問題ねえ」
「ありがとう。二つ目は、必ずオルガに了承をとること。むろん、僕も説明するけどね」
「キラが一緒に説得してくれたら大丈夫だよ、オルガも納得する」
「どうかな、あれで"兄貴分"にも甘えはあまり見せてくれないほうだからね。最後、三つ目は必ず家族に了承をとること」
「キラ、そいつはもちろん‥‥」
「君であれば、最低限デルマとアストンが良しと言わなければ手術しない。三日月の場合は、アトラときちんと話しあうこと。できれば、後見人をやってるクーデリアさんも一緒にね」
「応よ」「わかった」

 キラのしっかり目を見据えて、三日月と昭弘は応えた。決して無謀無茶無鉄砲などではない、確かに未来を見据えてのことなのだと。

「じゃあ、さっそくアトラのいる病院へ「三日月」、」

 言うが早いか、オノゴロ島の病院へと向かわんとした三日月をキラが制止する。

「資料、ちゃんと読んでないでしょ?僕から説明されたからって、その辺サボっちゃダメだよ」
「……キラってホント目敏い」
「怠け者だからね、僕も。サボリ癖を見抜くくらい訳ないよ」
「じゃあ俺のほうは基地のほうへ‥‥いや、」

 腰を上げかけた昭弘が、再びウッドチェアにガタイを預ける。
 キッチンのほうから、ベリーが焼ける香ばしい匂いが漂ってきたから。

「お二人とも、もう少し待っていただけますかー?お茶にあうクッキーが焼きあがりますのでー!」
「喜んで!」「楽しみ」

 奥方の楽しげな声に、キラはいうまでもなく仏頂面が多い昭弘と三日月の顔も綻ぶ。

 明日にも、下手しなくとも今晩にでも戦場へ出るかもしれない。その戦場で死んでしまうかもしれない。
 ただそれでも、今この一瞬だけはと願わずにはいられない。
 
 彼ら彼女らの願いが叶うにはもう数年ばかし、待たねばならないだろう。
 念願のそのときには……我が子を"両手"で抱きかかえた鉄華の英雄のひとりがいたそうな。
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