雑記。時々まどマギ


 これは匿名による脳内思考漏れ漏れのやばいものであるから、あんまり読まないことを勧める。
 (こんなもの貴重な祝日に読むもんじゃないよ。読んでる暇があるならUSJに行け。)


 現在、これを書いているのは2020年12月10日21時41分14秒であるが、何分間で書き終わるか、見ものである。

 さて、突然「書かないか?」と言われ二つ返事で了承してしまったが、全く各題材がないのが実際のところである。そういうことで、ここで吾輩のアドベントカレンダーを終わりにしてもいいが、それでは味気がないので何かを書いておこう。(まあ、語れるほどの思想を持っていないことも事実であるが)ということでほかの素晴らしいアドベントカレンダーとは異なりトピックが多くて非常に読みにくいがそこは堪忍してほしい。文体が違うのは書いた時間帯がずれているからです。ごめんなさい。タスクがありすぎてこんなことしている場合ではないんですけどね。

 初め、アドベントカレンダーに何を書こうか考えたときには、とりま、自分の詩集から何個か選定しよう(といっても、思いついては消え、しかも記憶にとどめてあるものがないため、物理的に書くことが不可能であり、一から作ることとなってしまうが)と思っていたのだが、大変だったのでやめた。ほぼすべてが若造のくそポエムだったからだ。大した人生経験をしていないにも関わらずどうして多く人生について語ることができるであろうか。いや、できない。(反語)しかし、そんなことを言ったらいつまでも我々は人生について語りえないものとなってしまう。だから私は何人も人生について、世界について語りえる権利を持つと考える。それは万人に与えられた権利なんだと。だから、自分を語っていくことが大切なんだと思う。漠然と生きているよりも自分を語り、自分を作る。それは、誰にでも許された権利であるし、自分を整理するうえで非常に重要だと思う。要約するならば、「人の子よ!語り給え!」といったことか。語らないよりは語ったほうがいいし、そうすることで分かり合えることもあると思います。

 次に言おうと思ったことはそうですね、やっぱり寮生の鉄板トーク「自治」ですね。「自治」って何でしょうね。なんかボケようと思ったけど、何にも思いつかないのでやめます。自治。うん、自治。これは非常に難しい問題です。自ら治めると書きますけど、我々の自治はお遊びといえばその通りで、そんなものに人生をかけるやつなんてばからしいって言うのが世間一般の見方なんでしょうね。それは、大学や社会から許されているからこそこの寮が存在しているし、高々学生でいる期間なんて限られているし、そんなお遊びに人生をかけるなんてばからしいでしょう。しかし、こんなばからしいことに人生をかけられないやつは何にも人生をかけられないと思います。そういう人たちは、自分を超えたなにかにはなれないのでないのかと思います。こういったばかげたことに本に気なれないやつはなにも成し遂げることができないのではないのかなと日々感じます。彼らにこんなことを言っても無意味で、自分のおごりであるということも十分に理解していますが。
 そもそも、「自治」っていう言葉を深く考えたことが我々にあるのだろうかと思う。口癖のように「自治」「自治」と言っているがほんとにその意味を理解しているのだろうか。文字のまま読み起こせば、「自ら治める」。自分たちでルールを決めて自分たちで運用する。でも、国というシステムは自治と言えるだろうか。国を自治と言っている人を私は見たことがない。自治という言葉が使われる、最も大きな団体は「地方自治体」であろう。地方自治体というのは、その名の通り地方の行政機関であるが、彼らは真の自治を行っているといえるのか?それは怪しいのが私の見解である。国が地方に合わせて細かく決めることは不可能だからその権利を地方に譲渡したという見方が正しいように思われる。そういう風に見るならば、寮における自治というものも、大学から譲渡されたものという見方ができるのではないのかと私は考える。もちろん、寮自治は勝ち取ってきたものという歴史があることは十分に理解しているが大学から社会から許されて存在している。その認識を持つことも大切なんだと思う。

 今年の私の思想を書くのはこれで最後になるのであろうから、書いておこう。「幸福たれ!」これが今年一年で得た私の哲学だ。コロナでいろいろな人の人生がめちゃくちゃにされたであろうが私たちの魂には神様から「幸福たれ!」という刻印をされていてそれをもとにして生きている。生まれてから死ぬという過程は何もしなければ、ただ生命という資本を使いつぶしているだけだ。死という絶対的な恐怖への一本道。それが生命として生まれたものの宿命。私たちは生そのものを呪わざるを得ない。でも、その過程の中で「幸福」に生きようと努力することで生命と引き換えにとても大切な何かが手に入るんだ。それが救いであり、生きるって言うことなんだと思う。自分の道を生き、自分が幸福になろうと日々、一生懸命に生きる。だから、ホントはコロナなんて関係ないんだ。自分が幸福になることが目的だから。でも、幸福が何かを考えないといけない。ある人の夢がお金持ちになることだとしよう。彼がお金になったけど、そのほかのものをすべて切り捨てたりしたらそれは幸福なのだろうか。彼は幸せなのかもしれないが幸福なのであろうか。幸福とは何なのだろうかということをよく考えて生きてほしい。そして私が「幸福たれ!」の意味とはそのように生きよということだ。だから、幸福とは何かを考えることもその過程の一部だから、それも幸福であろう。んー、難しくなってきたのでここで考えることをやめたいが、各人についてもよく考えてほしいです。

 あ、メイドについての愛を語ること忘れていた。私がオタクの道を歩み始めた最初の原因ってやっぱりメイドだと思うんですよね。なんで好きなのかはわからないです。でも、なんか、メイドを見るたびに自分の根源的なところからすごく活力がわいてくるような気がするんですよね。これが、「押し」ってやつなのかもしれないです。昔は、清楚系(委員長系)が好きだったりしたんですけどでも、周期的にメイドに対する愛がふつふつとわいてくるんですよ。何度かメイド喫茶にも行ったことありますけど、メイドを見るたびに「やっぱり、好きだな」って確信しまよね。メイド喫茶に店員目当てで行く人もいますけど、私はメイドに会いに行っているので、そこは勘違いしないでもらいたい!でも、京都のメイド喫茶にはまだ行ったことないので早く行きたいです。でも、メイド喫茶って一回行くだけで出費がすごいことになるのでポンポン行くのって難しいんですよね。はい。それで、メイドが好きだから、「自分がメイドになればいいんじゃね」と思いつきました。天才かぁ?

 そうそう、ここで思い出した。なんでこれを書き始めたのか。そうだ、まどマギの考察を書こう。ということでまどマギの考察を書いて、私のアドベントカレンダーは閉じたいと思う。唐突で申し訳ないがもうこの時点で書くのがめんどくさくなっている私がいるのだ。堪忍してください。あと、11時を過ぎてきたのでさすがに眠たくなってきた…ということでまどマギの考察書きます。






以下、まどマギのネタバレを含むためまどマギを知らない諸君はブラウザーバックされたし。









 まどマギを君は知っているだろうか。魔法少女まどかマギカ。いろいろな人がこの作品の性質上、いろいろな人によって考察が書かれているため、単なる考察では意味が二番煎じ、三番煎じ、になるのであろう。そのため、ここではやめておこう。そういうことで、ここでは異なる切り口から少し考察してみようと思う。ちなみに、劇場版の新編については見ていないのでご了承ください。
ほむらについて焦点を当ててみたい。彼女は最初から謎の転校生として現れた。謎の転校生というのはアニメの系譜では使い古されてきたテンプレートであることは注意されたい。彼女は物語の真相を握るキーパーソンの一人であることが多い。普段通りの日常に現れる非日常、そこから物語が始まる。この流れもテンプレオブテンプレである。そのための導入的な立場としてこのキャラクターは使われることが多い。ほむらもそれにもれず、最初にきゅうべいを襲っているところをまどかに見られるといった、非日常のきっかけをまどかだけではなく視聴者にも与えている。その姿は、きゅうべいと対立しつつも目的を果たすために活動するエージェントのように見えて、きゅうべい的な存在がほかにもいるのではないのかと疑ったほどである。そういうわけで、6話までは謎のヒロインとして君臨していた彼女であるが、7話にて見せたまどかに対する感情の高ぶれや8話において時間停止の能力が明らかになったことで、「これは!?お!?」となった同輩諸君も多かったであろう。10話にて明確に明らかになることであるが、これは全国のヲタク少年が好きな「時間遡行」と「自己犠牲の先にある救い」である。ヲタク諸君は「自己犠牲」が好きなのである。これはアニメ文化よりずっと前特撮時代から引き継がれてきたものであるが、誰かのために自分を犠牲にするという作品はとにかくウケる。ま、感動も生みやすいしね。いろいろなところでこれは使われていて、例えばであるが、SAOではアインクラッド編の最後で主人公キリトと黒幕茅場明彦との一騎打ちがあるが、これもキリトは自分の命と引き換えに茅場を倒すというシーンが繰り広げられた。この場合は、システム上助かったのだが、ガチで命と引き換えに誰かのために何かを成し遂げることもある。そして、その誰かは「特定の個人」か「世界」であることが多い。この点においてもまどマギはレギュレーションを遵守していて、「特定の個人」の場合はほむら。「世界」の場合はまどか。が、担当している。ほかにもそのような情景が見られるシーンは度々表れているが、ここでこの程度としておこう。(めんどくさかったわけじゃないんだからね!)そういうわけで、ヲタク諸君には刺さる構成だったことは過言ではない。ほむらというキャラは私たちの理想であったのだ。ほむらはまどかとの思い出に囚われており、彼女のために永遠に抜けられない時の監獄に閉じ込められていたことは言うまでもない。そういう意味で、人を縛る思い出との決別の仕方。新しい自分になるため、新しい世界に踏み出すため、過去と折り合いを付け未来に踏み出すというということをほむらは我々に教えてくれたのかもしれない。しかし、誰かのために、その人に知られず、生きるというのは非常にかっこいいことであり、それが同輩に刺さったことは事実であろう。本来ならば、好きな人の隣に立ってその人のために何かを直接してあげたい。しかし、それができない。その理由は人ぞれぞれであろうが(ちなみに私の場合は恥ずかしいからであるが)、できないからこその我々ヲタクであり、それゆえに好きな人のためにできることと言えば、その人のために陰ながらサポートする。そういう我らの姿を極限までかっこよくした姿だからこそ我々はほむらに惹かれるのであろう。切り口は異なるが、「小説になろう」の金字塔たる「Re;ゼロから始める異世界生活」も同じような要素にて構成されていることは過言ではない。そのような作品が古今東西我々を引き付けていくのだろう。
(ここでヲタクという語を使ったのは、あの古典的なオタクをイメージしているからである。あの、俺らのインターネットを生きていた時代の)

 ここまで、読んでくれた諸君にはお願いがある。「そらのおとしもの」という漫画を知っているかね。私が読んだ中で最高とも言っていいほどの完成度を誇る漫画である。来年はそれについて書くから読んでおいてください。まじでめちゃくちゃおもしろいから。笑いあり涙ありのハートフルストーリーだから読んでね。



よし、終わった。現時刻は…2020年12月11日1時29分32秒でありますので、大体4時間ぐらいで書き終わりましたよね。いやいや、この時間あったら結構課題終わったよね!ね!?
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