姉弟妄想


 あたしの人生には元々「弟」という存在はなく、あたしは後付けで「姉」になったのだ。
 自分で言うのも変な話だけれど、あたしは昔から相当に我の強い子どもだった。自分が世界で一番かわいらしい子どもだと信じて疑わなかったし、成長すれば世界で一番強いポケモントレーナーになるのだとも無邪気に確信していた。両親にとっては初子で、祖父母にとっては初孫だったあたしは、それはそれは可愛がって育ててもらったのだ。だから母親のお腹が膨らんでいくのも、そこから小さな小さな命が生まれてきて、祖父母や両親の関心が一気にそちらに傾けられたのも、幼稚なあたしには正直なところ我慢ならなかった。
 身重の母があたしに構ってくれなくてあたしが面白くない顔をする度、「もうすぐお姉ちゃんになるんだから」と祖父母からも、両親からも何度も言われた。けれど母のお腹に赤ん坊がいるとわかった瞬間にあたしの意識がただのゼイユから「お姉ちゃん」に入れ替わるわけでもなく、それは弟が生まれた瞬間でさえもそうだった。あたしは長らく周りからそう形容される「お姉ちゃん」を持て余していた。弟をあやす母のためにお利口に手伝いなんかをしても「さすがお姉ちゃんね」と言われてしまうのは、まるで何を称えられているのかさっぱり覚えのないメダルを急に首にかけられたようで、嬉しいよりも先にむずがゆい違和感がずっとあった。それでもクルミルみたいに弱々しい赤ん坊があたしの指をギュッと握ったときは言いようもない多幸感を覚えたし、差し出された離乳食をモニモニと少しずつ食べる弟を見ていると「ああ生きてるんだなあ」と他でなかなか感じないような感慨が幼稚だったあたしの胸にも確かに広がった。歩けるようになった弟が「ねーちゃ、ねーちゃ」と泣きそうな顔のよちよち歩きで後をついて回るのも、なんだか得意な気持ちになって悪い気はしなかった。あたしは多分、そうしている中で「お姉ちゃん」を獲得していって、周りから見れば少しずつその称号が板について行ったのだと思う。
 そんな風に暮らしていたある日、大事件が起きた。近寄っちゃいけない、行ってはいけないと、里で生まれた子どもたちにはすりこみのように厳命されている鬼が山の恐れ穴に、弟がなんども一人で行っていたことが露見したのだ。
 あたしだって四六時中弟と一緒にいるわけではなかったし、時々ふらりとどこかへ遊びに行っているらしいことはなんとなく知っていたけど、男の子なんだし知らないルールがあるのだろう、何より夕飯時には帰ってくるのだしとずっと放っていた。その日は正にアーボの巣穴でもつついたような大騒ぎがスイリョクタウンを上から下からひっくり返し、キタカミセンターの裏手にある鬼が山に続く階段で大人たちは弟を待ち構えていて、とっ捕まった弟は大人たちからとんでもない大目玉を食らってしまったのだ。
 あたしは里の子どもたちの中でも特別行動的で相当に手のかかる子どもだったからか、「鬼が山がどれだけ恐ろしい場所なのかを身を以て教える」との名目で無理矢理恐れ穴近くまで連れて行かされたことがある。テチテチ歩くモルペコだの怯えた様子で走り去るミブリムだのを眺めているうちは良かったけれど、剥き出しの硬く寒々しい岩肌、転んだら麓まで転げ落ちていきそうな急勾配、柵なんて無い断崖、妖しげな火を揺らめかせるヒトモシや毒ガスを噴射しながら浮遊するドガースなんかは、目が合ってしまうだけでも子どものあたしの不安を掻き立てるには十分すぎる。何より、恐れ穴に続く細い細い道は強い風でも吹いたら簡単に足を踏み外して真っ逆さまに落ちてゆきそうで、とてもとても恐ろしかった。だから、弟があんな道を一人で歩いて何度も通っていたのだと想像したその瞬間、あたしは全身の血の気が引く感覚というものを人生で初めて味わう羽目になったのだ。
 本当は、帰ってきたらあたしもたっぷり怒ってやるつもりでいた。こんなにあたしを心配させるなんて、なんてふてぶてしい弟なんだとあたしは憤慨していた。だけど祖父母に連れられて戻ってきた弟は赤ん坊に戻ったみたいに号泣していて、あんまりにも可哀想なその姿を見るなり、あたしは言おうとしていた文句も不満も何もかもがすっぽ抜けてしまった。結局あたしは弟と一言も会話なんてできず、お風呂も入らずご飯も食べずに部屋に引きこもってしまった弟を恐る恐る窺うなんて、実にあたしらしくもないコミュニケーションを取らざるを得なくなったのだ。
「スグ……寝てるの?」
 真っ暗な子ども部屋に、廊下の照明が細長く入り込む。静かな室内に向かって声をかけたけれど、何の返事もなかった。さっきまではヒグヒグと引き攣るような泣き声や癇癪を起こして暴れるような足音が聞こえていたのに、いつの間にか弟はベッドの中でクルマユみたいに丸まって、スウスウと穏やかな寝息を立てている。そっと忍び寄って、覗き込むと、汗をかいてグシャグシャの黒髪が額に貼り付いて、目元も真っ赤に腫れたまんまでとても痛々しい。今は眠りだけが弟を守っているように見えて、あたしはその柔らかい膜を剥がしてしまわないように、必死で息を殺した。
 泣き疲れて眠る弟はあんまりにも痛々しくて、可哀想で、あたしは弟を取り囲んで叱った大人たちに理不尽な怒りがふつふつと湧き上がるのを感じていた。してはならないことを何度も繰り返した弟が悪い、それを叱るのは大人として当然で、だってそれは他ならぬ弟のためだから。そんなことはわかっている。けれど、言い方ってものがあるんじゃないのか。弟だってばかじゃあない、きちんと言ってわからないことなんてない。それなのに大きな身体で小さな子どもを取り囲んで、こんなに泣くまで叱るなんて、すこし酷いんじゃあないのか。
 ――ゼイユはお姉ちゃんなんだから、弟の面倒をちゃんと見なさい。
 常日頃言いつけられていたそれが、ずっと正しかったのだとようやく痛感した。あたしが見ていてやらなきゃいけなかった。行ってはいけない場所に行かないようにと言いつけなければいけなかった。あたしがそれを怠ったから、弟は危ないことをしてしまって、大人たちからこっぴどく叱られてしまうような事態になってしまった。
 もしあたしが、弟を守れる、言うことを聞かせてやれる、強い「お姉ちゃん」だったら。今更そんなことを思っても遅いけれど、今からでもしてやれることはあるのだろうか。
「スグ……」
 声をかける。弟の名を呼ぶ。起こしてしまわないようにそうっと、優しく頭でも撫でてやるみたいに。
 あたしの人生には元々「弟」という存在はなく、あたしは後付けで「姉」になったけれど、この子は生まれた時からずっとあたしという姉がいる「弟」だった。そのことにようやく気がついて、あたしはなんだか無性に腹が立ち、泣きたくなって、そしてその火のような怒りが自分自身に向いていることもよくわかっていた。それは人生で初めて味わった、心の底からの悔しさだった。自分の不甲斐なさを許せなくて、唇を噛み締めたくなるような苛烈な無力感だった。
「姉ちゃん、けっぱるから」
 その言葉は今にして思えばどうしようもなく拙くて、傲慢で、幼稚な誓いだった。けれど曲がりなりにもあたしはあたしの意志で、自分を「お姉ちゃん」にすることを決めたのだ。
 あたしはそれを、今でも覚えている。
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