紀元前331年 ペルセポリスにて


征服王イスカンダルはペルシス門の戦いに勝利し、首都ペルセポリスに入城した。
とはいえ、この時代ではすでに名目上の首都でしかなく、スサやバビロンに首都機能は移っていたようだが。
それでも、なおペルシア人にとっては非常に重要な都市だったのは間違いない。
イスカンダルは、ペルシア帝国への見せしめのために、徹底的な破壊と略奪をペルセポリスで行おうとした。

 しかし妻であるハルモニアにより、それは静止された。
苦労して占領した都市で、略奪を行えないことにマケドニアの将兵は不満を抱いたとされる。
しかし、ハルモニアがペルセポリスの市民たちの前に姿を現すと、彼等は自然と平伏し、貢物を差し出した。
その物量たるや凄まじい物で金だけでも3000トン(現代で換算すると30兆円弱)相当だったという。
それらを分配することで、ハルモニアはマケドニアの将兵達を納得させたのだという。
またこの貢物を、彼等の身代金であるとハルモニアはイスカンダルとマケドニアの将兵に約束させ、ペルセポリスの人々の無事を保証させたのだと記録されている。

 さて、なぜハルモニアがペルセポリスの市民達の前に姿を現しただけで、彼らは平伏したのか。
それは下記のエピソードから読み取れるだろう。

『女神ハルモニアは、大王イスカンダルと共に、ペルシア帝国の大王とその側近しか拝謁が叶わない壁画の前に案内された。
へファイスティオンなる兄妹は、大王の影武者という名目で同伴を許された。
その壁画の題材は“善と悪”であり、かって行われたヌオーの祖達とアンリマユの化身たる“その名語るも忌まわしき者”との聖戦の様子を克明に描いた物だった。

 それは7つの巨大な壁画によって構成されており、最初の壁画から順々に見ていくことで、建物を一周し最初の壁画に戻る仕様だった。

一つ目の壁画は、薄暗闇の中で縛られて絶叫する男の耳元に、卑しい何者かが囁いている壁画だった。
男の足元には、禍々しく輝く血や他の体液で描かれた怪物の姿があった。
薄暗闇で見づらいが、男の有様はただひたすらに“惨く”損壊されており、よく見れば顔の皮膚は雑に剝がされ、耳らしきところに耳は無く、ただ穴より血を流していた。
壁画の下の金属板には、愚か者たちが聖なる者ヌオーの対となる、邪なる者を産み出そうとしたことと、その願いに応えたアンリマユが生贄に囁いているのだと解説が書いてあった。
『さあ、君の描きたい物を描きなさい。 私はそのお手伝いをしよう』

第二の壁画は地獄絵図だった。
どこかの都市で、口のように開閉する割れ目に人も都市も嚙み砕かれる様子。
黒い雨を浴びたことで、全身に忌まわしい腫物が発生し、全身から血を垂れ流しながら身体を掻きむしる人々、その傷口から蠅と蝗の奇怪な合成生物が這い出てくる有様が克明に描写されていた。
石は苦痛に歪み、木々や人間以外の生き物達も、上記の忌まわしき生き物を無尽蔵に出産する苗床に変貌させられ苦痛にあえいでいた。
生物も無生物も苛まれ、苦しみにのた打ち回る有様が壁画全体で描かれていた。

 壁画の下の金属板には『“それ”は全てを憎んでいた、呪っていた。 生物も無生物も関係無く、世界の全てを苦しめることが“それ”の望みだった』と記してあった。

第3の壁画は暗闇の中で山々を越えるほどに巨大な怪物が、眼下の蠢き苦しむ矮小な者達を見て嘲笑している姿だった。
“それ”の眼下には第二の壁画であった地獄を縮小した物が多数並べられていた。
いや、よく見ると人物も建物も全然違う。
そう、一つ一つの地獄が克明に描かれていたのだ。

だが一番忌まわしいのは“それ”の姿であろう。
ヌオーを巨大化させてひどく歪めて、竜や蠅や蝗等をグチャグチャに混ぜ込んだような気色の悪い姿。
そして、一見黒い雲のように見える表皮が、無数の蠅と蝗の出来の悪い合成物で構成されている有様には鳥肌が立った。
なによりも、どこまでも卑しい表情が激しい嫌悪感を抱かせる。
この怪物が人間より産み出された証左であろう、まさに人間の醜悪の極限であった。
 金属板には、“それ”は忌まわしい嘲笑をしながら、眼下の矮小な者達にこう語りかけたと書いてある。
『お前達に“救い”など無いと知れ! そんな物はお前達の妄想に過ぎない!
 お前達に相応しいのは苦痛と絶望だ。 さあ、この世に生まれてきたことを呪うがいい。
 それとも、存在しない至高の善神にでも祈るか?
 よろしい、その愚劣さこそが、お前達、人間そのものであるがゆえに。
 せいぜい、祈り、呪い、苦痛にのたうち、消滅しろ。
それこそが、お前達の“救い”である』
そう言うと、“それ”の忌まわしき嘲笑が天地に響き渡った。

 第4の壁画は暗闇の中、光り輝く6柱のヌオー達が現れ“それ”と相対する場面が描かれる。
“それ”の表情は嘲笑から憎悪一色へと変わり、ヌオー達に絶叫していた。
“それ”の足元にいる人々は、その光輝をまとうヌオーの姿に涙を流し平伏していた。
よく見ると、すでに忌まわしい蟲は少しずつ、光輝によって地に落ち燃えていた。

 ヌオー達のまとう光輝は、黄金で彩られており、その威光を表現したかった作者の苦労が偲ばれる。
 金属板には『世界の全てが闇と絶望に覆われた時、至高なる善神の御使いは降臨された。
“それ”は自身の天敵に憎悪の咆哮をあげた。
「証明してやろう! 善や正義や美に聖など妄想にすぎぬと。
 お前達も! お前達が創造した物も、全てが無価値であったと!」
大いなる善と悪の戦いは始まった』

 第5の壁画は、壮絶な善と悪、ヌオー達と“それ”の激闘が描かれていた。
 闇を穿つ黄金に色どられた光や、宝石で表現された聖なる雨が“それ”の身体を損ない、眷属もろとも破壊していく。

 “それ”の抵抗の様子も克明に描かれている。
“それ”の口や全身から、黒い呪詛の津波が槍のようにヌオー達に飛んでいっている様。
無数の忌まわしき者達が黒い竜巻となって襲い掛かる様。
そして大地の裂け目を極限まで広げて、ヌオー達を吸いこもうとする様子などもあった。
だが、ヌオー達の放つ光輝や聖なる雨の前に、それらが打ち消されていくのである。

そして、大地や人々が癒されていく様子も、上記の戦いのせいで目立たないが緻密に描写されていた。
 金属板には
『大いなる善の力は大いなる悪を凌駕していた。 
驕り高ぶっていた“それ”は狼狽する。
 「なぜだ⁉ なぜ⁉ ヌオー風情にッ‼」
 “それ”は気づかない、自身のもたらした惨禍さえも、大いなる善の力によって癒されつつあることに。
“それ”は気づかない、破壊しか出来ぬ者が、創造する者に及ばないことに』
と記されていた。

第6の壁画は、大いなる悪の滅びが描かれていた。
 最後の抵抗で黒い竜巻となって、ヌオー達に突撃した“それ”が光輝によって粉々にされていく有様である。
また、その際に、“それ”の内より胎児が現れ、光輝に覆われる姿があった。

この場面では、壁画全体が黄金で彩られた光に満たされ、闇の時代は終わったのだと端的に表現されている。
地上にいる全ての生き物、人も家畜も小動物も木々でさえもヌオー達の威光に平伏している姿もあった。

金属板には
『“それ”は断末魔の絶叫をあげて消滅した。
 至高なる御使い達は、“それ”の中核となった者にも慈悲を与えた。
 そう、至高なる善神はあまねくすべてに慈悲を施すのである。
 ここに悪は善に及ばぬことが証明された。
 至高なる善神、その御使いたるヌオー達に、
我等は永遠の忠誠と感謝を捧げなければならない。
それこそが、正しき“ヒト”の在り方である』と記されていた。

最後の壁画は、世界が修復される様子が描かれていた。
 それは7つの場面で構成されており、
最初の壁画には平伏し続ける人々に苦笑したヌオーが、絶美なる人の姿に変わる場面であった。
二つ目の壁画には、歪められた大地や人々を癒して治療する御使い達の姿が。
三つ目の壁画には、おそらく神官たちが集められ、御使い達に厳しく説教されている姿が。
四つ目の壁画には、葬儀に参列し、死者の冥福を祈る御使い達が。
五つ目の壁画には、崩壊した建物を御使い達の指示で建て直している人々の姿が描かれ、女神を思わせる三柱の御使いが人々に食事を配っている。
六つ目の壁画には、平和が戻った世界を満足げに見守る御使い達と、それに涙を流しながら感謝の祈りを捧げる人々が描かれていた。
最後の壁画は、立派な若者が、光で編まれた王冠を御使い達に託されている様子で終わっている。
解説が刻まれた金属板には
『大いなる悪は滅びたが、御使い達の仕事は終わらない。
 御使い達は悪によって、もたらされた無数の苦痛を癒す作業にとりかかった。
 人々が御使い達のあまりの威光に平伏を続けるので、御使い達はしかたなく人の姿となられた。
 その姿は絶美であったが、不思議と人を和ませた。
 
 御使い達の指示のもと、世界の復興は急速に進んだ。
今回の事件が、至高なる善神への背教がゆえに起きたのだと、御使い達は神官たちに責任ありと叱責された。

また、御使い達であっても、さすがに全ての人々を救うことはかなわず、死者たちが天国に行けるように差配された。

 そして都市の復興にも御使い達は手を貸してくれた。
女神達よりもたらされた食事は、我等に希望をもたらした。

 御使い達の、助力の結果、全ては以前よりも良くなった。
人々は、御使い達の慈悲にこころより感謝した。

 最後に御使いは、最も優秀な若者に光で編まれた王冠を託された。
それは、今回の事件のようなことを二度と起こさぬように、良き王のもと良き国を築きあげろという御使いの指示だった。

 ここに、大いなる善と悪の物語は終結した。
余は、善神の庇護の下、二度と上記のような事態が起きぬように務めることを誓う。
~ダレイオスⅠ世~』

 この一連の壮大な物語に大王はおおいに感動していたが、女神は顔を曇らせていた。
その様子を訝しんだ大王が女神に問うと
「いえ、なんというか、本当に悲惨だったのよ。
あまりにも“それ”はおぞましかったし、惨禍もひどいものだった。
だから、どうにも、こんな大いなる神話として描かれているのに、しっくりこなくて」
「??? まるで、実際に見たかのような感想だな。 まさか、そなた。 実は女神エレオスなのか⁉」
「いいえ、違いますわ、あなた。 私はただ女神エレオスの依り代となっただけ。
すでに、あの時代には神々は天界に去っていた。
地上に残っていた始祖は、ただ一柱だったので、他の五柱も必要となると、どうしても依り代を介して召喚する必要があったのよ」
「……ああ、だから最後の壁画に描かれた女神の一柱が、そなたに瓜二つなわけだな。
 実に、光栄である。
 余の妻が、そなたであることを、今一度感謝したい」
「あら、私を好きになったのは女神だから?
 それだったら、ちょっと残念かなあ」
「むむむ、まさか拗ねられるとはな。 ならば余のそなたへの愛を証明してみせよう」
「そうね、私をあなたの愛で包んでちょうだい。 怖い記憶を思い出してしまったから、ね」

 こうして女神と大王は、仲睦まじい会話をしながら退席なされた。
大王の影武者である二人は、まだ壁画の世界から完全には帰還できていないようで、少しぼうっとした様子で壁画の間を去った』

 善と悪の戦いの物語が広く一般的に流布されている関係で、上記の壁画に比べれば出来で大きく劣るとはいえ、女神の絵は数多く存在している。
その影響で、ハルモニアは御使い達の一柱か、それに近しい者と認識されていたのである。

 まあ、その推測は間違ってはいなかったが。

 後のペルシアの支配が順調に進んだのは、彼女の影響が大きかったのは間違いない。
そして、その事が彼女が暗殺された後に、大きな爪痕となるのだった。
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