先の見えぬ霧の中でも


『─パドック入場お願いします。』

無機質な声が電話越しに響く。

「…はい、わかりました。」

そう一言告げて受話器を置く。その手が震える原因は、緊張か、恐怖か。
それすらも判別できぬほど、身体が昂っていた。
数100m先のターフでこれから行われるのはジャンプレースの頂点、中山グランドジャンプ。
私にとって初めてのG1の舞台がこれから始まるのだ。

「…怯えるな。」

震える左腕を強く握りしめる。前走の敗因を、恐怖に負けた自分自身を戒めるように。
幻影に囚われているようでは、アイツらには勝てない。そのことを、この間のレースで身をもって知った。
…知った、はずなのに。怖い、恐い。どうしようもなく。
走っているうちに、自らが出した霧に吞み込まれそうで。金縛りにあったかのように身体が動かなかった。

「入るよー。うっわ、陰気臭い。産まれたばかりの小鹿みたいに震えちゃって、そんなに恐いの?G1がさ。」

声とともに入って来たそいつは、おおよそG1を前にしたトレーナーとは思えない態度で、私に言葉を投げかけてきた。
普段と変わらぬ、人を小ばかにするような物言い。
内心ではムカつきながらも、今はそれを言葉に出して怒るほどの気力は無かった。

「…仕方ないなあ、ほら、コレあげる。」

小さな小包を土手っ腹に思いっきり投げつけられた。
痛い。金属の重みのような、ずっしりとした痛みを感じた。

「あの2人からの贈り物だよ。開けてみるといい。」

この袋を投げつけ返してやろうかと思う自分をどうにか抑えながら、赤いリボンを解く。
反射した蛍光灯の光とともに見えたのは…

「指輪…?」

紅と銀の2対の指輪。一つには夜空で輝き続ける紅き巨星が、もう一つには決して散らない鉄の花が、金属の中に刻まれていた。

「…君がチームリーダーになってからは初のG1だからね。あの2人もいろいろと浮足立っていたみたいで、何か送れないかってずっと二人で話してたのさ。」

紙の包みから輝くそれらを取り出し、指に嵌めてみる。驚くほどすんなりと、指はその2つを受け入れた。

「…アイツら。」

喜びともにあふれてきたのは申し訳なさだった。
年下二人を引っ張る立場でありながら、一人の世界に閉じこもって、心配をかけて。

「…ホント、何してんだろ、私。」

私が苦しんでいるときも、アイツらはずっとそこにいたのに。
どうやら私は、大事なことをいつの間にか忘れていたらしい。
膝に手を置いて立ち上がる。確かな力で、地面を踏みしめながら。

もう、迷わない。
例え霧の中にいようが、同じ空の下にいるのであればきっと、南天の星が行く先を示してくれるだろうから。

「…いってらっしゃい。」

勝負に赴く私の背中に、再び声が投げつけられる。
今度は確かな温かさをそこに感じた。

「…いってきます。」

最後にボールを投げ返して、光に向かって歩き出した。
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