海軍本部雑用ロシナンテに任務を言い渡す 3


【エルガニア列島編 前半】

美しい花の島、エルガニア列島。
雪のように白い花弁のサンドラコスモスが一面に咲き乱れる庭。その向こうの壁の外の街を、帽子を被った若い男が一人、巨大な屋敷の2階から見下ろしていた。
その顔は帽子に隠れて陰っている。
数千年前に火山で隆起したというこの列島は新世界では珍しい長閑なばかりの秋島だった。
人々は賑やかに露店の並ぶ通りを遊んでいる。栄えている街だった。

「お気に召したかね。自慢の庭だ」

背後から穏やかな声を掛けられて、男は肩をすくめて窓から目を離す。
ドアを開いて表れたのは背の高い老境にさしかかった男だった。手には金色に揺れる酒瓶が揺れている。

「さァな」
「きみが略奪をしない海賊で良かったよ。ご覧の通り穏やかな島だ。この島を守るのが、島親の私の役目なのでね」
「そうかよ。…それで、いい加減おれも"観光"してェんだがな」
「そうはいかない。島民の不安を招く札付きはここにいておくれ。それが停泊の条件のはずだ。他の船員は自由にさせてあげているだろう?」
「…」

帽子の男が島親と名乗る男を睨み付ける。島親は肩をすくめる。

「これはお願いだよ。海軍にはすでにこの島に"賞金首"がいると知られているし、いつ来てもおかしくない。きみも海軍とコトを構えたくはないだろう」
「それが客に対する態度か?」

若い男が吐き捨てる。島親は肩をすくめて彼の言葉をいなした。

「海賊を客として扱っているだけでも破格だと分かってくれ。私だって海軍は苦手なんだ。元海賊なものでね」

若い男はあてがわれている豪華な客室の椅子に腰を下ろして足を組んだ。島親を睨み付ける眼光は鋭い。

「きみだからここまで許している」

大きな窓から日差しが差し込んだ。
帽子の下の若い男の、隈の目立つ顔立ちを照らす。

「いつでも海賊なんてやめてこの島に永住してくれていいんだよ。そういう海賊はたくさん居る。かくいう私もそうだがね。飲むかい? この島の酒はやみつきになる」

男は黙って首を振った。
島親は残念そうに肩をすくめて部屋をさる。

「ああそうだ。今から海軍の中将と会談をしなければいけないんだ。どうか部屋の中にいておくれ。君がいるなんて知られたら大変だ」

そうだろう、と島親が笑い混じりに若い男を見る。

「いまや四皇に次ぐ大海賊。トラファルガー・ロー」
「……誰が格下だ」

若い男──“死の外科医”トラファルガー・ローは閉じた扉に吐き捨てた。

※※※

花咲き誇るエルガニア列島。五つの島からなる列島は花に満ちている。
 咲き乱れる花々は殆どが島の固有種で、この島でしか見られないものばかり。花から作られる蜜の花酒の美味たるは伝説の如し。偉大なる航路だけではなく東西南北への輸出も盛んである。
その島の正面に軍艦が一隻停泊していた。

「ここ、火山列島なので温泉もあるんですよ、センゴクさん」

我先にと駆けだしていった休日を勝ち取ったのG-5の面々。文字通り、停泊中にいつ休日を手に入れるかの真剣勝負にはロシナンテも巻き込まれ、運良く今日を勝ち取れた。
船番を割り当てられてしまったり、仕事が残っている海兵達が船縁や望楼からやっかみまじりにそれを見送り、ロシナンテは手を振ってそれに応える。もちろん、帰ってきたのはブーイングである。
ロシナンテは休日らしくラフな姿である。制服の上だけを変えて柄物のシャツを着ている。センゴクもラフな格好の上に海軍外套を羽織っていた。

「そーかそーか。そりゃ楽しみだ」
「旅館は取ってますからね!」
「一仕事終えたらゆっくりしよう」

にこにこと話し合う二人の後ろで、たしぎ大佐とスモーカーもタラップを降りていた。この二人もまだ海軍コートを脱いでいない。

「この島の街の中央に島親さんのお屋敷兼お役所があるそうです。滞在許可はここで取らないといけないんだとか」
「面倒くせェ」

手の中のメモに目を落としながらタラップを降りるたしぎ大佐に、スモーカーはつまらなそうに鼻を鳴らしている。

「でもすごいですね。この島は二〇年以上海賊の被害がありません。襲ってくる海賊はいなかったんでしょうか……」
「ああ、たしぎ大佐。それは島親が……」

ロシナンテが口を挟もうとしたところで、つるりと足が滑る。懐かしいような慣れた浮遊感に思わず目を閉じた。センゴクがぎょっとした顔をするのが見え、直後にびっくりした顔のたしぎ大佐と呆れたスモーカーが見える。

「ロシナンテさん!」

親切なたしぎ大佐が慌てて支えようと手を伸ばし、タラップに躓く。
つんのめるたしぎ大佐に慌ててロシナンテもひっくり返りつつ手を伸ばそうとして、ぼふん、と煙が視界を覆った。

「何回同じことやってんだ……」

モクモクと煙るスモーカーにひょいと港に放り投げられてロシナンテは頭を搔いた。

「ありがとうございますスモーカーさん」
「おれはドジっ子なんだ」
「何百回聞いたかわからねェよ。おっさんが」
「海に落ちるんじゃ無いぞロシナンテ」
「はい、センゴクさん」

膝の砂を払って立ち上がる。立ち上がってようやく、タラップの降り口で待っていた男が口を挟む。

「ようこそお越しくださいました。海軍の皆様。私は島親アルカニロ様の使いの者です」

深々と頭を下げる男に、たしぎ大佐がきっちりと敬礼をして返す。

「はい、我々は海軍G-5支部〇〇一部隊です。この度は我々の調査寄港をご許可いただき感謝します! 賞金首がいると情報がありまして……」
「ええ、ありがとうございます。もう20年、海賊とは縁の無い島。……賞金首がいるものかはわかりませんが存分におくつろぎください。馬車をご用意しております」

腰の低い男の手の先に、色とりどりの花で彩られた美しい馬車が用意してあった。白馬の二頭立てに、白い花かごのような馬車である。
おとぎ話から飛び出してきたかのようなそれにスモーカーは眉間の皺の深さを数ミリ深め、ロシナンテはうわぁ、と小さく口の中で呟いた。あれに乗って街を行くスモーカーはなかなかに想像しがたい。

「お前アレに乗るの」
「代わってくれんのか、雑用」
「嫌だ」

スモーカーにぎろりと睨まれて、ロシナンテは肩をすくめる。
すごい立派ですね!と素直に感心しているのはたしぎ大佐くらいのものだった。たしぎ大佐とセンゴクが馬車について使いの者と話している間に、ロシナンテは煙草で口元を隠しながらスモーカーに囁いた。

「スモーキー、島親に油断はするなよ」
「…するわけねェだろう」
「もし"特別な美酒"とか言われて出されても飲むんじゃない」

スモーカーの視線がこちらを向く。無言で続きを促されて、ロシナンテは低く囁いた。煙を吐き出す。

「この島はSADの原材料のひとつを輸出していた島。巨大な麻薬カルテルの元締めだという噂がある。それは知ってるな」
「ああ、そういう"情報"だ。……アンタの集めた情報なんだろう。ロシー先輩」

ロシナンテは頷いた。
十三年前、ヴェルゴに握りつぶされたあの文書。あれに記されていたあまたのブラックマーケットの大物達の証拠は殆どが使い物にならなくなった。ジョーカーの失墜で共倒れになった相手もいる。
だが──文書に記した以上の情報は、ロシナンテの"頭"に残っている。

「ああ。十三年前までのおれの調べた情報だ」

ドフラミンゴの取引相手も、その情報も、ルートも、証拠も。文書に書いていなかったわずかなものまで。
その中でも一番の大物がいるのがこの島だ。

「この情報をおれが証明できれば、正式に海軍が動く。失敗すれば、おれの"情報"は無駄になる」
「ずいぶんと信用されてねェな」
「まァしかたないさ。一度は海兵をやめて全部捨てて死んだ男だ。センゴクさんがチャンスをくれた。本当に感謝してもしきれェ」
「……そうか」
「…北の海の闇も多少は晴れるはずだ。どうにかやりのこしちまった仕事をやり遂げたい」

葉巻をふかし、スモーカーは低く呟いた。

「変わったようで変わらねェな。相変わらず、海兵らしい海兵だよ」
「そうか?」

ロシナンテは首を傾げる。スモーカーは肩をすくめて、馬車に向かった。

「じゃあロシナンテ、またあとで」
「はい、センゴクさん!」

可愛らしい馬車に乗り込んだセンゴクとたしぎ大佐、スモーカーを見送ってロシナンテは思いっきり伸びをした。ただの雑用相手には流石に馬車は準備されていない。仕方ないので港から街の中央まで歩くほかにないだろう。
頭を切り替えてロシナンテはのんびりと歩き出した。風は涼しく、空は高い。
秋島の秋の良い天気だった。


どこか牧歌的な街は、北の海の雰囲気を残している。淡い橙のレンガ造りの町並みと石畳の道の合間合間にロシナンテの名前の知らない花々が咲き誇って香りを立てていた。
コスモスに似た白い花で埋まった花壇、群れなす蜂のような黄色い花を垂らす街路樹。店の先に垂れる赤い釣り鐘の形の花、庭先には桃色の八重の花びらの花が風に揺れる。
港からうろうろとしながら大通りにたどり着く。大通りにG-5基地の海兵の姿は見えず、どうやらもう既に酒場にでも繰り出しているらしい。
大通りの露店を眺めているだけでもドライフラワーや、乾かしたハーブや、お茶の葉、店先につるされた良いにおいの香るサシェ、色とりどりの花の蜜漬け。植物を利用したものばかりでロシナンテは流石にあっけにとられた。
観光にきた客向けの露店の一つ、話し好きそうな顔をした女性に、煙草をもみ消して声を掛ける。腰を折って眺める板の上のハーブは殆どがロシナンテの知らない種類だ。

「すげェなァ。おかみさん、これ全部ハーブかい?」

背の高いロシナンテに一瞬目を丸くした恰幅の良い女性は、柔和な顔をくしゃりと笑みに変えた。

「そうだよ。全部薬師さまの見つけてくださった島の草花だよ」
「薬師様といえば……島親の」
「もちろん! あのかたのおかげで島は平和で、豊かなのよ」

女性はまるで自分が褒められたように嬉しそうに微笑む。ロシナンテはにこにこと笑みを浮かべて頷いた。
「そんなに変わったのか?」
「昔はきれいなだけの花を売っていたけど、今は薬になる花も島の外へ売っているのよ。花の蜜の酒もあの方の知恵でねェ」
「へェ、有名だよな。この島のお酒」
「ああ、あの方には感謝してもしきれないねェ」

薬師と呼ばれ親しまれている男がその知識をこの島に与え、それを教授している人がいる。花の美しさの他に価値を見だし、花を材料に酒を造って外に売る──それだけを聞けば何の変哲も無い島の暮らしだ。

「そうかァ……」

雪のような花弁の美しいドライフラワーを一束つまみ上げてロシナンテは呟いた。この島固有の花なのだろう。知らない花だ。

「これとこれ二つくれる?」
「はいよ、まいどあり」
「そうだ。おすすめの酒場とかある? さっき聞いた酒飲んでみたくてよ」
「この島には少ないねェ……行くなら三番島がおすすめだよ」
「ありがとう」

サシェと花束を受け取って大通りを歩くロシナンテの隣を、深くポーラーハットを被った数人の男たちが通り過ぎる。
一瞬、ロシナンテの足が止まった。
顔色を悪くしてその男たちを振り返る。

「……!」

しかし、振り返った先にはもう誰も居なかった。
ロシナンテは煙草に火をつけて咥えなおす。煙を吐いてため息を誤魔化す。
運が良ければ一年、なるほど残された時間は少ないらしい。
肩をすくめて気を取り直し大通りを離れ、細い路地を縫うように港から島を縦断するように歩く。
大通りと違って人の生活の気配のする細い道を歩く。樽や木箱がつまれ、コートやシャツが頭上に干されている細い道。
賑わっていた大通りの喧騒が遠くなった辺りで、荒い声が聞こえた。

「まて!」

怒号が聞こえてロシナンテは思わず振り返った。
その時にどん、と背後から駆けてきた誰かにぶつかってひっくり返る。

「わっ、ドジった!すまねェ!」
「悪ィ、怪我ねェか?」

ロシナンテの下敷きになるようにひっくり返った青年は慌てた顔で、ロシナンテと同時に声を上げた。
立ち上がるのに二人して四苦八苦していると、後ろから同じように駆けてきた男の友人らしいパイロットキャップの青年がロシナンテの手を引いた。

「こいつがごめんな、怪我ねェ?」
「あぁ、平気だ」

ひっくり返ったシャツの埃を払い、手を振る。ロシナンテとぶつかった青年も慌てて立ち上がる。石畳に転がったキャスケット帽を被り直して、至極申し訳なさそうにサングラスの下の眉を下げた。

「ごめんな」
「花は無事だし、慣れてるからな」
「ならよかった……ッ!」

背中に再度、初めに聞こえた怒声が聞こえる。パイロットキャップの男が肩をこわばらせて声の方を振り返った。

「ヤバい、追いつかれる」
「追われてるのか?」
「あんたを巻き込むわけにゃいかねェ、行くぞ!」

キャスケット帽の青年が駆け出そうとして、がくっと膝をつく。転がった時に自分を庇って足を捻ったのだと先程を思い出して悟る。
パイロットキャップの青年が相棒に肩を貸そうと手を伸ばす。しかし、荒っぽい声は一層近づいてきていた。
二人が眉を寄せる。
──その判断は咄嗟だった。
ロシナンテは指を鳴らし、木箱の影に二人を押し込む。手を伸ばして目についた大きな服を物干しローブから引き抜く。

「サイレント──じっとしてろ。隠してやる」

指を鳴らして防音壁を張る。二人の青年を隠すように引き抜いたファーコートを広げ、タバコをふかす。
声の主は憲兵らしい服の厳つい男たちだった。
ロシナンテを怪訝そうに見ると、別の方向に走っていく。

「ふぅ……行ったか」

それを見届けてファーコートを肩に担いで木箱の裏を覗く。
青年たちは驚いた顔でロシナンテを見上げていた。

「大丈夫か?」

防音壁を解除し、二人を隠していたファーコートを吊り下げてあったハンガーに戻して振り返る。
よく似た驚いた顔をしていた二人は慌てて頷いて立ち上がった。パイロットキャップの青年がほっと息を吐く。

「助かった! ありがとう」
「恩返しだから気にするな。兄ちゃん足大丈夫か?」
「平気! 一瞬変に曲がっただけみてェ」

キャスケット帽の青年は足首をぐるぐると回して破顔する。我ながらかなりの体格である自覚はある。それを咄嗟に庇って少し足を捻っただけとは、ただの市民ではないのだろう。

「なんで憲兵に追われてたんだ?」
「……」

二人は顔を見合わせて複雑そうに口をつぐむ。
何か言いたくない事情でもあるらしい。
だが、この島で憲兵──ひいては島親の護衛兵と争う理由は二つしか無い。一つはまだ起こっていない争いであり、もう一つはこの島で常に起こっていることだ。
ロシナンテは腰を屈めて二人に顔を寄せる。すん、と鼻を鳴らせば二人からは抜けきらない潮の匂いと鉄とオイルの匂いがした。この島の人間に染みついている花の匂いは殆どしない。
島の外の人間。
憲兵に追われていたならおそらくは海賊だろう。

「海賊か? 海賊が一番島にいりゃあ追われるか…」
「…アンタは?」
「おれも似たようなもんだよ」

船乗りという意味では、と言外に言い訳をして応える。
途端に二人から高まった警戒に、ロシナンテは内心で驚いた。
大方の海賊という生き物は、同類に対してわずかにでも警戒を下げるものだ。海賊が海賊に対して警戒するのは、用心深い性質の海賊団か、海賊嫌いの海賊──この二人の場合はどちらかと言えば前者に近い表情をしている。所属しているのが賢い海賊団なのだろう。
パイロットキャップの青年が再度礼を告げて踵を返そうとしたのを引き留める。

「助けてくれてありがとう。おれたちは行くよ」
「まあまあ、そう言うなよ」

立ち去ろうとする二人の肩に手をかけて止めた。

「そのまま行ったらまた憲兵に見つかるぜ。騒ぎを起こしたくはないんだろう? 良い道を知ってる」
「そうだけど、アンタも島の外の人間だろう」
「分かるか?」
「…この島の人間は花のにおいがするから」

キャスケット帽の青年が低く呟く。その顔に憂いを読み取って、ロシナンテは思わず口角を上げた。

「屋敷に誰かいたりするか?」
「……アンタ、何者だ?」
「ちょっと事情通のお兄さんだ」

二人からの警戒が極限まで上がる。びりびりと肌を刺すような覇気にロシナンテは煙を吐いた。優男めいた姿にみえて、驚くほど洗練された動きだ。鍛え抜かれている。本気で攻撃されればロシナンテでは到底敵わないだろう。先ほどの憲兵程度ならば簡単に殺せただろう。
しかし、彼らはそれを一度もひけらかさずにいる。言葉の端々から仲間思いと、思慮深さを感じた。
どこか──誰かに似ている。
海賊だろう彼らに、なんともいえない不思議な好感を感じていることをロシナンテは自覚していた。
それをおくびにも出さずにロシナンテは煙草をふかして二人を追う。

「待て待て! そんな警戒するなって! ちょっと島に詳しいだけだ!」

追い縋るロシナンテに二人が怪訝そうに顔を上げて、同時にぎょっと身をのけぞらせた。

「アンタ、煙草で肩燃えてるよ!」
「ドジった!」
「ペンギン、水ゥ!」

街角の水場の水で鎮火され、三人ともに肩で息をする。

「もー、なんなんだよアンタ……」
「ドジッ子なんだ。昔から」
「あはは」

二人は顔を見合わせて肩を落とした。それから気が抜けたような顔で笑う。

「分かった。道を教えてくれ」

ロシナンテはほっとして二人に先だって道を進む。
道すがらに話してみると二人──キャスケット帽の青年がシャチ、パイロットキャップの青年がペンギンと名乗った──は、ロシナンテが直感した以上に驚くほど気の良い海賊だった。
北の海、それもロシナンテのよく知る極寒の最北部出身の海賊で、一〇年ほど前に旗揚げしたらしい。
北の海の話題で盛り上がっているうちにロシナンテの案内で軍艦が繋留している港とは逆の海岸に着く。
住民が使っている漁船の小舟が浮かぶばかりの寂れた浜辺だ。潮風が甘い匂いを吹き流しているので、人が少ない。
波打ち際に足を運ぶ。無事に海に着いて二人はほっとしているようだった。
すこし南に視線を向ければ大きな橋が島を繋いでいる。 
ロシナンテはそれを見ながら、二人に声をかけた。

「お兄さんからの忠告だ。この列島のつくりは知ってるよな」
「ああ。四つの島が一直線につながる列島。この島がメインで、二番島、三番島って呼ばれてる」

ペンギンが頷く。ロシナンテは磯の岩に腰掛けて補足する。落ちていた流木で五つの直線を砂浜に描く。一本の線が五つに区切られたような列島。それがこのエルガニア島だ。火山島であり、島には山が多い。

「……五つの島があるのがこの列島だ」
「五つ?」
「ああ──今はまだ無関係でいられるだろう」

シャチが首を傾げる。

「一番島が中心街。二番島はホテルやレストラン、温泉とかだな。三番島が歓楽街。──裏の港もここだな。海賊ならこっちに停泊してるだろう」

ペンギンはわずかに頷く。その指がロシナンテの引いた砂浜の線の四番目を差す。

「四番島は島親の研究施設があると聞いた。海賊も住民も、許可が無ければ入れない」
「そうだな。島親の許可がなければ入れねェ場所だ」

ロシナンテも頷く。
その奥にもうひとつ小さな島があるのは、今はもう殆どの人間が知らない話だ。

「海賊に振る舞われた金色の酒を飲んだんじゃないか? 甘いやつだ。そいつをもうこれ以上飲むな」
「ああ…」

覚えがあるのだろう、シャチの顔が歪む。

「島で酒を飲んだ仲間が中毒症状を起こした。ひどかったのはおれとこいつ──あとキャプテン自身」
「とっさにキャプテンが解毒したんだ。それを知った島親が接触してきた。キャプテンはそれに乗って、今はもう一人の仲間と屋敷にいる」
「アドバイス遅かったか。だが、解毒できたのは凄いな」
「キャプテンだからな!完全な解毒とはいかなかったみたいなんだけど」
「そうか……」

首を振りながら、ロシナンテは眉をひそめた。
気を取り直して磯の浅瀬を指差す。

「こっから磯を進めば二番島に着くって聞いてる」
「いや、海に出ればこのまま泳いで三番島まで帰れる」

ペンギンの言葉に泳ぐ? と思わず尋ね返しかけてロシナンテは飲み込んだ。北の海育ちだと聞くので、この島の季候なら問題ないのだろう。

「…船長はかわいそうだが、なるべく早く島を出た方が良い。長居するのは向かない島だ」

二人はぐ、と口元を曲げた。おそらく屋敷の仲間を置いて出る気はさらさら無いのだろう。
それ以上ロシナンテも強く勧める義理はなく忠告に止めようとして、ふと思いつく。
ポケットから先ほど買ったサシェを二人に渡す。

「海賊は匂いでバレるんだ。これやるからもっていきな。ちょっとは一番島でも誤魔化せる」

サシェを受け取り、二人はきょとんとしてロシナンテを見上げた。

「どうしてそこまで良くしてくれるんだ?」
「……あー」

ロシナンテは言いよどんで苦笑した。どうしてこの海賊の青年たちに良くしているのかあまり自分でもわかりはしない。
気持ちの良い青年たちだから? たまたまぶつかっただけの自分を気に掛けてくれたから? 北の海の出身だから?
──あのクソガキを重ねてる?
どれも理由になるようでならない。
ロシナンテは昔からそういう男だった。

「…気まぐれだよ。心配なら理屈くらいはつけれるが」
「いや、ありがとう。本当に助かったよ。あのまま偵察で見つかってたらキャプテンに迷惑かけるところだった」

もう一度礼を告げる義理堅い青年が、ざぶんと水の中に消えた。飛ぶように泳ぐペンギンの水影はもうすでに遙か沖に見える。
シャチもサシェを防水布にしまい込んで笑って振り返った。

「あんた、名前は?」

ロシナンテは一瞬逡巡して名乗る。

「…おれはコラソン。この島をぶっ壊しにきた男だ」
「へっ?」

ざざんと波音が響き、遠くでペンギンがシャチを呼ぶ。

「じゃあな、もう会わねェことを祈ってる」

手を振ってロシナンテは橋の方に歩き出す。水音が聞こえたのでシャチも沖に泳いでいったのだろう。
ロシナンテはフゥと煙草を吹かして、舌打ちをした。ポケットに入っている袋の中のものに触れて、眉間の皺を深めた。

「やっぱり、ノースに流通しちまってるか、"JOY"」

北の海に残した愛すべきクソガキを思い出す。

「ローはこういうのに手ェ出してないといいなァ……」

ぽつんとこぼれた愁嘆は誰にも聞こえぬまま潮風に流れていった。

※※※


四つ──否、あのコラソンと名乗った男の情報を鵜呑みにするとすれば"五つ"ある島の内、中央に位置する島の港に沈む我らが母艦にペンギンとシャチがたどり着いたのはそろそろ海が金色に染まる頃の時間帯だった。
ポーラータング号の下部の水密室に入って二人はようやく肩の力を抜く。水が艦外に完全に排出されハッチが閉じたのを確認して、まず口火を切ったのはシャチだった。

「…あのおっさん、"コラソン"って言ってたな」

ペンギンが頷く。
コラソン──別の言葉で"ハート"をあらわす言葉は、ペンギンたちハートの海賊団を表す名の一つだ。彼の様子をみるに自分たちがハートの海賊団であることは気づいていないようだったが、なぜその名を名乗ったのかは分からない。

「何者だ?」
「わかんねェ。けど、"酒"……やっぱり原因か」
「…キャプテン無事かなァ」
「ビブルカードはピンピンしてるってよ」

 シャチが水密室の外で積まれているタオルで頭を拭きながら水密隔壁を閉じる。二人で意見をすりあわせながら艦橋に向かう。
思い出すのは、この島に来たその日に倒れた自分たちだった。

「キャプテン、島に着きましたよ!」
「先遣隊の様子だと、海賊は殆どいなくて、でも三番目の島に隠れて停泊してるみたいです」
「海軍の軍艦も来てません!」
「分かった。停泊するぞ」
「アイアイ!」

永久指針をいつの間にか手にしていたキャプテンがこの島に舵を切るように航海士と操舵手、そして機関士たちに命じたのは数日前の話だ。キャプテンの命令とあればハートの海賊団に否やはない。
そそくさと航路を変更し、この島に意気揚々と停泊した。
浮上して航行していれば、奇妙な形の艦にみえるのがポーラータング号の良いところだ。船長の気質からも流石に億を大きく越えた賞金首であることは喧伝する趣味はない。
よって、どの島に行っても大概はハートの海賊団だと知られることはなかった。賞金首のローは少しばかり変装する必要はあるが。
──そこまでは良かったのだ。

「どこかで見たことがある酒だな」

幾人かの船番を置いてまずは酒場を訪れたローは、朗らかで幸福そうな主人に勧められた酒に眉を寄せた。
どこかで見たことがあるが、それをどこで見たのか思い出せない様子だった。
クルーはあまり知らないようで、甘い酒に舌鼓を打つ。ハクガンのように甘い酒が苦手なクルーは辟易とした顔で別の酒を頼んでいた。
ペンギンとシャチも極寒育ちということもあり酒であればなんでも美味い。
金色に美しく揺れる夕暮れ近い海のような湖面をキャプテンと三人共にグラスを合わせて飲み込んで、ぐらりと脳が揺れた。
隣のシャチが、がく、とテーブルに肘を突いて頭を押さえる。平衡感覚が狂ったような、足下の覚束ない感覚。目の前のキャプテンも目を見張って頭を押さえている。

「──!?」
「──ROOM!」

 ばら、と体が崩れて何かを抜き取られる。キャプテンもまた自ら能力を行使しながらぎょっとした顔で自分たちに駆け寄った仲間達に指示を出す。

「……艦へ!」

そのとき頽れたのがシャチとペンギン、そしてローだ。同じ瓶から同じ酒を飲んだはずの仲間達には何も起こっていない。
しかし、キャプテンと自分たちから解析されたのはおぞましいドラッグの成分に似たものだった。

「酒場の親父に盛られた……?」
「でもおれらも一緒に飲んでたのに!?」
「おれたちなんともないよ!?」

キャプテンもまた平然とはいかぬ様子でROOMを解除した。オペオペの実の能力は極度の集中力を必要とする──能力が使えないほどに乱されている。
キャプテンにもまた、能力で抜け切れなかったドラッグの影響が残っている。シャチとペンギンは切り刻まれて大方抜けたがやはり、胸の内を渦巻くような底知れない酩酊感に動けずにいた。

「キャプテン!」
「落ち着けベポ……」

泣き出しそうなベポを抑え、ローは懸命に息を整えた。
ポーラータング号の外を睨んで呟く。

「……客だ」

大きく展開したROOMはその能力でもって、この船のの正体を露わにしたらしい。停泊していたポーラータング号に客人が訪れる。

「トラファルガー・ロー……、どうやらお困りのようですね」

白髪交じりの初老の男。タキシードスーツで紳士然とした男がポーラータング号の前に立つ。
──"薬師"アルカニロその人だった。

罠だと止めるクルーを一にらみで黙らせてローは一人甲板に上がった。甲板の手すりに手を掛けて男を見下ろす。

「体質に合わない花があったのでしょう。この島の花は殆どが薬草なのでね。解毒はできそうかな?」
「…随分と耳が早いな」
「私は島親としてこの島を守る義務があるんだ。酒場の親父さんが驚いて知らせたんだよ。助けてくれってね」
「……酒場の主人は無実だと?」
「そうですよ。だから治療の申し出をしにきている」

ローの吐き捨てた言葉に島親はおっくうそうにため息を吐いた。

「時たま居るんだよ、島の花が体質に合わなくて倒れる人が。そのたびに復讐だと島を荒らされては敵わんのでね。倒れたのは何人かな?」

黙りこくったローを見上げて島親は苦笑混じりに肩を竦めた。
ペンギンとシャチ、ローが急激だっただけで、確かにクルーの中に同じような陶酔感が出ている。

「信用できんか?」
「すると思うのか。お前を殺して薬を奪うこともおれには容易いことだ」

ローは鬼哭の鯉口を切る。わずかに覗く美しい刃文が怪しく輝いている。
しかしそれは、ローが今能力を使えぬことの証左であることをペンギンは悟る。
ローならばそんな問答をするよりも先にシャンブルズで薬を奪取し、スキャンで解析しいただろう。
彼自身が何かに侵されている今、能力を展開することさえ不可能に近い。
ローのはったりが通じているのか居ないのか、島親はわざとらしい困った顔をした。

「それは困るな、お互いに。私は島を守れず、この艦は仲間を失うかもしれない。……私はただこの島を守りたいだけなんだ。望むなら治療薬は渡す。ただ、停泊するなら賞金首は屋敷に来てくれ。このまま去るなら治療薬だけを渡すから、島を出ていってくれ」

黙りこくるローに、島親はまるで頑是無い子供を宥めるような口ぶりで話を続けた。

「“死の外科医”トラファルガー・ロー。私はかのドンキホーテ海賊団を下した名高い海賊であるお前だから譲歩しているんだ。平和な島から略奪をする男ならそもそも治療薬の話など出さずに見殺しにしている」
「……わかった。おれが屋敷にいけば、他の仲間は“自由に”動いていいんだな」
「もちろん。自由に“観光”でもしてくれ。ああ、ただ一番島は海賊厳禁だ。それを破るなら、きみたちを客の扱いとはしない。……覚悟をしてくれ」

ぞくりとするような眼光で島親は念を押す。
そしてローはベポを連れて島親の屋敷へと去っていった。

「キャプテンはおれが守るから安心して!」
「必ず戻る」

治療薬は確かに“内科医”と名乗った島親の配下の医師によって手配され、服用したクルーの容体は回復した。
その日より三日。
クルーたちはキャプテンと全く連絡が取れずにいる。

濡れた髪を乾かし、シャチは防水布を拭いて中身を取り出す。その匂いに、ペンギンは口元を曲げた。

「……いい人だったな」
「このサシェも自分用に買っただろうにな」

 防水布から取り出したサシェの匂いは島に充満する花々の匂いそのものだった。憲兵に見つかったのが匂いのためと言うならば、確かにこれは言い隠れ蓑になるだろう。だが、この匂いを二人は知っている。足音を聞きつけたか、艦の居住区からハクガンが仮面を覗かせた。
仮面越しでもすこし窶れているのが分かるのは同じ艦の仲間だからだ。
居住区のハッチの向こうから、手元のサシェとよく似た匂いがする。
声を潜めて帰艦を告げる。

「ハクガン、ただいまァ」
「おかえり、シャチ。ペンギン」
「みんなの様子はどうだ?」

ハクガンはこっそりと居住区を振り返り、肩を落とした。居住区に眠っているのは仲間の約半数以上。
三人が声を潜めているのも彼らを刺激しないためだ。

「今は鎮静剤が効いて眠ってる。お前らは?」
「おれたちは大丈夫。初めにキャプテンに抜いてもらったのがよかったみてェ」
「酒の成分の解析できそうか?」
「それが、どう調べても普通の酒なんだよ。この土地の花の蜜をブレンドして作ってるだけの地酒だ」
「治療薬も?」
「うん」

ペンギンの低い声がポーラータングの廊下に頼りなく落ちた。ハクガンとシャチも顔を見合わせて頷く。

「酒か薬に何かあるはずだと思ったんだけどな…」

ハクガンはやるせなく呟く。ペンギンも小さく息を吐いてかぶりを振った。深海の水圧よりも重たい沈黙が落ちる。
それを破ったのは、居住区から聞こえてきたうめき声だった。

ああ、お酒が飲みたいよォ……!

その声に三人ともがぞっとした。普段の溌剌とした仲間とは違う、譫言のように虚ろな声にハクガンは身を翻して居住区に戻ろうとする。
その背にシャチは慌てて声を掛けた。

「ハクガン! もう酒は飲ませるな!」
「飲ませてない! でもあれはただの酒のはずだろ…」
「それでもだ。…一番島で会った男に『飲むな』と忠告された。やっぱり何かある」

ハクガンの肩が揺れる。仮面越しに不安そうな気配を漏らす彼の肩をペンギンは叩いてなだめた。
キャプテンが屋敷に去った数日の内に、半数ほどのクルーに異常が出始めた。酒を異常に飲むようになったのだ。普段下戸のクルーさえ、浴びるように酒を飲む。
咄嗟にクルーをポーラーに閉じ込めて岸を離れた。
潜水艦という密室で隔離したが様子のおかしいクルーは酒を求める。
──鎮静剤で無理矢理落ち着かせ眠らせているのも、これ以上は潜水艦内で内乱が起きかねなかったからだ。

「アイアイ、ペンギン」

また居住区に戻るハクガンの項垂れた背を見送って、シャチとペンギンは唇をかみしめた。
もうあまり猶予がない。
騒ぎを起こせばローの身に何があるかわからず、そもそも半数以上が昏睡している潜水艦がまともに動くはずもない。今、この艦を島の全兵力で攻められればペンギンとシャチだけでは仲間全員を守りきれないかもしれぬ。
秘密裏にローにこの現状を伝えることもままならず、二人はほぞを噛んだ。
だが、手をこまねいているわけにはいかない。

「明日は……四番島に行こう。何かこの状況の手がかりがあるかもしれない」
「ああ」

ペンギンの提案にシャチが拳を合わせた。


※※※

二番島の旅館は火山島らしく山の裾野にあった。
 既に日が暮れてしばらく経っている。G-5の海兵たちに誘われていた二番島で一番大きい酒場に顔を出し、少しばかり話をする。酒場の姉さんたちは急にやってきた海兵に嫌な顔一つせず楽しそうに給仕をしてくれ、ロシナンテもまた色々と話が弾んだ。
素直な海兵達は三番島には行かずに大人しくしているらしい。それにほっとして少しばかり酒を呷る。新世界に流通している度数の強いラム酒だ。あまり過ごすと体に障るので今は少しだけにして席を立った。随分と引き留められたが、大目付を待たせてると言えば流石にそれ以上は引き止められなかった。
酔いを覚ましながらロシナンテは二番島の山を登る。幾度か山道をドジって転けたが今更の話だ。
電伝虫で予約してあった旅館に足を運べば、もう既にセンゴクは旅館に着いていたらしい。

「遅くなりました」
「女の子と楽しくしてたのか? ん?」
「あれは冗談ですってば! 昔だって面白がられてただけですよ」

制服を脱ぎ、浴衣に着替えたセンゴクに開口一番に尋ねられてロシナンテは慌てて手を振った。
若い頃ならまだしも、今はもう体の年齢は三十九。精神的にはまだ二十代のつもりなせいで貫禄が出ないのが悩みどころだが、もう酒場の給仕にちやほやされる歳ではない。
そう言い訳を重ねてロシナンテの慌てる様子を面白がっていたセンゴクが風呂に誘う。ロシナンテもほっとしながら頷いてセンゴクに伴って大浴場へ向かった。
泊まり客はほとんどが近隣の島の商船の船乗りや気ばらしの島の住民らしく、ガタイの良いセンゴクとロシナンテに一瞬視線を向けたがそれほど衆目を集めはしなかった。

「温泉なんて久しぶりだな」
「本当に子どもの時以来じゃないですか? うわ、湯船に花が浮かんでる」
「男湯か…?」
「女の子なら喜ぶんですかね? ちょっと邪魔だなァ」

大きめの内湯に浮かぶ美しい花をかき分け、二人並んで肩まで浸かる。ロシナンテはあ゛ーと息を吐く。

「もうおっさんだな」
「酷ェ!」

センゴクもまた湯船につかると悦の入った声を上げる。

「たまにはいいなァ」
「センゴクさん働き過ぎですもんねえ」
「半隠居でそこまで働いて溜まるか。今日の挨拶だってついて行っただけだ」

殆どをスモーカーとたしぎ、あと数名の海兵に任せて自分は立っていただけだと笑う。大目付が立っているだけで十分に役目を果たしているだろうに。
のぼせる前に湯船を上がり、ついでに体を洗う。

「背中流しますよ」

センゴクの背中をねぎらいながら洗う。

子どもの時はあれほど大きく、背伸びをしても肩に届かなかった背中は、今は自分よりもすこし小さく見えた。

「ありがとう」

お湯を掛けられたセンゴクが目を閉じて呟く声に、ロシナンテは苦笑した。自分は十分な孝行もできずにいるのに、どうしてこう優しいひとなのだろう。

「……」

口の中で転がした言葉はどうにもロシナンテの外にはでてくれなかった。


談笑しながら旅館の食事に舌鼓を討つ。飾り花が多いのには辟易したが、全て除けてしまえばいいことだ。
腹を膨らませ、あとは寝るだけとなる。
広縁の窓から街の喧騒を見下ろしていたセンゴクがちらりとロシナンテを見た。

「少しだけ使えるか」
「はい。──"サイレント"」

指を鳴らして防音壁を張る。
街の喧騒も、山の獣や鳥や虫たちの声も耳が痛いほどにしんと静まり返った空間に重たい沈黙が落ちる。
楽しい休暇の終わりだけが聞こえてくるようだった。

「ケビーのことと積み荷の"JOY"──しらを切りましたか」
「ああ。無関係の一点張りだ。調べたいなら調べてみろとな。スモーカーが四番島の工場への査察許可をもぎ取っていたが、ありゃあ随分と自信がありそうだ。下手を打てばこちらが弾劾されるだろう。明日、スモーカー中将とたしぎ大佐、あと数人の部下で四番島の工場へ行くことになった」

センゴクの言葉には辟易としたものが滲む。ロシナンテも流石にそれは想定内だ。

「でしょうね。そう簡単にいくならドフィが取引相手に選ぶはずがない。ここまで海軍の目を盗めもしない。……当初の作戦通りになりますがいいですよね」
「尻尾でも出してくれればお前に任務を与えずに済んだものを」
「……センゴクさん」

今はもう表情の読めぬセンゴクの瞳には自分は一体どう映っているのだろう。
ドジな愚か者か。
信用に値しない裏切り者か。
それとも、彼の任を受けるに値する海兵か。

「……本当に大丈夫なんだな?」
「はい。この島の闇を暴く"策"があります」

センゴクはため息を吐いて、ロシナンテを振り返った。
その顔は、既にロシナンテの養父から、世界の均衡を担い、守る一人の海軍将校となっている。

「……海軍本部雑用ロシナンテ」
「はッ」

声色の変わったセンゴクに、ロシナンテは片手を額に上げた。タールに汚れた手を上官に見せぬようにする、海兵式の敬礼。ロシナンテの骨の髄まで染みついている。
智将センゴクの静かな声がロシナンテにいつものように命じる。

「"JOY"の製造元の証拠をつかむこと。原料を持ち帰ること──そして生きて帰ること」

ロシナンテの目が丸く開かれる。ロシナンテの戸惑いを理解しながら黙殺したセンゴクが言葉を継ぐ。

「以上の任務を言い渡す」
「……はッ」

ロシナンテは一瞬詰まった声を引きずり出して、揺れた声で応じた。

※※※

「じゃあ、センパイ──あいつは別ルートですか」

 二番島と三番島の海峡の港で待機していたスモーカーは葉巻の煙を風に散らされながら大目付に尋ねる。
 空はどんよりと薄曇りで、東の空からほの明るい朝日が一日を始めようとしていた。風は強く、雲は早足で秋島を駆け去ろうとしている。

「ああ。……他言無用だぞ」
「分かってますよ。あの人のいつもの任務だ」
「人には向き不向きがあるからなア」

日の昇る水平線を眺めながら呟くセンゴクと同じ方に目を向けてスモーカーは肩をすくめた。

「油断のならねェ海兵だったよ。死んだと言ったのはアンタだったはずだ、センゴク大目付」
「色々あるのさ」

スモーカーは風に吹き散らされるほどの小さな声で囁く。

「あいつの郷里とか家族とか……ミニオンの任務とかか」

沈黙は重たく二人の間に落ちる。それが肯定か否定か分かるほど、スモーカーはこの大目付のことを知らぬ。しかし、自分の知る海兵がこの男を心から慕う腹心の一人だったことは知っている。
このまま沈黙が続くだろうと思っていた矢先に、ぽつりとセンゴクが呟いた。

「甘いと思うか?」

スモーカーは舌の上で葉巻の煙を転がした後、首を振った。

「あの人が“正義”を裏切ったと思ったことは一度も無ェ」

ちらりと横を見れば、陽光を見るセンゴクの目がわずかに緩んでいた。
今度こそ穏やかな沈黙が二人の間に流れていく。
沈黙を動かしたのは、威勢の良い部下の声だった。

「スモーカーさん! センゴク大目付! 私以下部隊の準備完了しました!」
「スモやん! 視察部隊準備できたぜ!」
「証拠見つけてぶっ壊せばいいんだよなァ!」
「まかせろォ!」

連れてきた海兵のうち5人ほどがたしぎの後ろでわいわいと騒いでいる。いつもよりはしゃいで居るように見えるのは、たしぎに選ばれた優越感からだろうか。
昨日視察に連れて行く部下を選べとたしぎに告げたときには大騒ぎをしていたと思い出す。

「騒ぐな馬鹿ども。見つけたら好きにしろ」

スモーカーは煙を吐き出して海兵を黙らせる。部下の群れの中にテンションが低そうな部下を見つけて首を傾げる。

「……ん?」

海兵ならばこの時間は朝寝坊の時間だ。ふと気に掛かって声を掛けようとした時、焦ったようなたしぎが声を上げる。

「スモーカーさん何してるんですか、四番島行きの船が出ますよ!島親さんの部下の方がお待ちです。早く乗ってください!」
「ああ、わかった」

スモーカーはため息を吐いてタラップを上がった。その次に大目付が続き、部下を引き連れてたしぎも乗り込む。
海兵達がはしゃぎながらタラップを上がる中、それに紛れるように一人の海兵が帽子を深く被り直していた。

※※※

ロシナンテは颯爽と三番島の山向こうの、奥深い歓楽街を歩く。港街のある湾から一つ離れるだけであっという間に何もかもが地に落ちる。人も、心も、ここには何の価値もない。
 
太陽はまだ東側にあり、この町はまだ眠っている。
二番街と打って変わって、楽しげに酒瓶を抱えながらへらへらとした男や女がたむろしているのが三番島だった。道ばたで眠っていたり、へべれけで道ばたでうずくまっていたりする様子は、治安が良いのか悪いのか分からない様子だ。裏の港にはぼろぼろのジョリーロジャーを掲げ、帆は畳まれたまま朽ちていくような海賊船がいくつか並んでいる。まだ朽ちていない船も繋留しているヤードにいくつかフジツボがついている。

「兄ちゃん、酒をおごってくれよ」
「……断る」

片目に眼帯をした男に足を捕まれてロシナンテは冷たく吐き捨てて振り払う。眼帯に刺繍されているのはジョリーロジャーだ。
一層縋ってこようとした男をコートを翻して避けた。へへへ、とそれでも機嫌が良さそうに空の酒瓶を抱える男は道ばたで寝息を立て始める。

「……落ちぶれたなァ、ジム」

ロシナンテは一瞬その男に目を向けて低く呟いた。眼帯の男には届かない。
かつて意気揚々と偉大なる航路に足を踏み入れた男の面影はもう失われている。コラソンとして武器を交えたことさえある海賊団を率いた船長はもはや見る影もない。朽ちた帆と浮かんでいるばかりの船を見て想像したとおりの姿だ。
フーッとため息の代わりに煙草を吹かして風に散らされる。

「ピエロのおじさん、わたしはどう。安くしとくからさァ」
「いらねェよ。……風が強いぞ、服は着ろ」
「なんだァ残念」

ざんばらの髪を強い風に靡かせる女はがっかりした顔で踵を返す。
地に足の着かぬふわふわと雲を歩く女は自分のすみかなのだろう掘っ立て小屋の中に帰っていく。あの女もまた、名の知れた海賊船の船長だろう。
ああ、まるで懐かしいあの街だ。
ロシナンテの思い出の中で血を流す記憶はこんな地獄が煮詰まったような場所だった。
あの場所を記憶して海兵として立身した自分の心が騒ぎ立つ。正義のありかはどこにあるのかと。

──だが、今ロシナンテは海兵の服を脱いでいる。

白い制服を派手な柄シャツに。かつて羽織った白いコートの代わりに、黒い羽のコートを纏った。
歪む口の代わりに、口が裂けるほど笑った形のうルージュを。こぼせない涙の代わりに目元に道化の涙を刻み、視線を悟られぬように黒いサングラスを掛ける。
かつてドンキホーテ海賊最高幹部の席に掛けた男が地獄の底から蘇っていた。
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