作文置き場


白猫の『縛り』について#

僕が自分で建てる部屋は「協力行為」を目的にしてて、別に低スペキャラだけでクリアしたいわけじゃない。
一部相互さんからはよく「これ強すぎますか?」とか確認されるけど、その性能に対応した役割さえわかってれば正直どうでもいい。
むしろPSも性能もバラバラな4人が連携して、クエを破綻させないのはある意味理想とすら言える。

でもランマチで最初からPSも性能もバラバラでいいですよってやると一瞬で破綻するから、協力行為ができない人を選別するために、あれやこれやの細かい条件を付けている。
「連携しないと瞬殺される条件やな」って感じ取れる人だけ入れるように。

実際はその「連携しなきゃ」っていう意識を求めてるだけだから、入ってきた時点でキャラチョイスはほとんどゲストの自由の詐欺部屋。
極論すれば前も書いたけど、「湧きタゲ全部外してアタッカーやる」って自信のある人はステルス張っていいし、タゲバグ修正とかの緊急避難で挑発撃つのもアリ、タゲ役が自分のPSに照らし合わせて自己回復&過剰耐久、全然アリ。

縛りの根幹になる火力設定もかなりアバウト、むしろ火力差で役割も明確になるって認識で、平均化は考えてなくてクエのトータルで考える。
1人明らかに高い人がいても、火力集中の速攻が必要な場面があればそこで活躍してもらって、他の時はサボっててもらう。
高火力だから殲滅しなきゃ!とか勘違いする人は基本入ってこない。
そもそもハメた敵をさっさと燃やして時短するのを何とも思ってない程度には、実際の立ち回りには無頓着(その敵をハメることを全員が共有していれば)。
それぞれがこういう役割意識共有しててクエが破綻してなければ、僕は満足する。

要は建前の条件に合わせて出したキャラの性能から役割が決まるような、キャラ主体の考え方じゃなく
それぞれが「何がしたいのか」を自身で考えて、それに合わせてキャラを出していると僕は見ている。
その上で、各々がやりたいことを全員で共有し、組み合わせて実行に移すのが連携。
カッコよく言うと、この人間主体の感覚を共有しているかを、僕は縛る。

その上でホストとゲストは対等ではないっていうことは何度も書いたり言ってるけど、ホストとして、ゲスト同士の関係は対等を求めている。味方のキャラチョイスや立ち回りに注文を付けるのはホストの役目で、逆に言えばホストが許容している限り、ゲストは味方に不満があってもクエ中はそれを表に出すべきではない。(MPKしまくってるのに気づかないとかの論外は除く)
自分がやりたいことをここではできない、と判断したら退室する自由はある。

まとめれば、「ほぼ好きなことやっていいけど、それに皆が協力してくれるとは限りません。なお僕がやりたいことには協力してもらいます」
「『この条件ならこれができる!』とキツいことをあなたが思ったとしても、その条件はフェイクなんで、キツいのは僕のやりたいことの本質ではなく、他の人が付き合うかも不明です。でもまあ、あなたが個人的に挑戦してみるのは自由」



具体的な立ち回り、僕がやりたい連携は

・タゲ役は魔が決める
魔が率先して取りに行くなら、他の味方は控える。逆に魔が控えるなら、他は魔に一切タゲが行かないよう割り振りを考える。

・敵の制御はタゲ役に任せる
ハメ技使うのか、耐久するのか、タゲ交代するのかはタゲ役が決める。自分のPSとキャラの耐久性能に照らして、味方に極力とばっちりが行かない最善の方法を考える。それがセオリーやその状況での最適解でなかったとしても、味方は絶対に従う。殴り合いに入った場合はとりあえず加勢するが、タゲの概念ない人の場合無視していい(それを入れたホストの責任)。

・削り役は急がない
削りに入るのは、全員が何をしてるのかタゲ割り振りはどうなったのか、自分の安全が確保されているのか確認してからでいい。タゲ役が不安定で持ちそうにない場合でも、急いで倒しに行くとお互いにとばっちりで共倒れの可能性が高い。それだけ制御できない、付け焼き刃の連携じゃすぐ崩されるような、ひっきりなしに強攻撃してくる敵(照りドラ)は、連携の練度が上がるまではキャラ性能を上げる。

・回復は魔の自由
星20以上での自己回復はOKだしゾンビプレイも何とも思ってないけど、同時に魔はその味方を無視していい。ただ自己回復キャラを使う場合は、常時自己回復するから完全に最後まで無視してもらうか、魔が間に合わない時だけの緊急避難で自己回復するのか、クエ開始直後にはっきりさせておく。
その上で、後者の緊急避難キャラであっても、魔には無視する権限があり、他のキャラのサポやタゲ管理を優先していい。

・魔以外の複数タスクについて
魔は常時回復復活のタスクがあり、基本的にはそれを最優先するが、タゲ役削り役を兼任するケースも多い。回復復活最優先の原則さえ通していれば他のタスクを持つかは自己判断で、他の味方は無条件に従う。
魔以外が、ある敵タゲを取りながら、他の敵を削りに行くような複数タスクになった場合、原則としてタゲ役としての役割を優先する。タゲを取っている敵を制御できているかを常に念頭に置き、状況によってはタゲ役専念に戻る。上記のように、ほとんどのクエでは急いで敵を削る理由はない。

・湧きキーや敵挙動等のクエ理解について
個々の立ち回りの前提として必須ではあるけど、この理解がないから直ちに連携も崩れてクエが破綻する、というわけではない。すもぐりハーピーや暗雲・照りの壺みたいに、タスクに対して4人じゃ人が足りない、どうしようもないのはあるけど。
他の局面では、想定外の湧きや強攻撃でイレギュラーな状況に陥っても、上記の各原則、魔>タゲ役>削り役という自由度の優先順位を守って対処していけば、立て直せることが多い。
ただ「それがイレギュラーな状況である」「なぜその状況になったか」という認識と反省、その共有は絶対に必要で、それがクエ理解に繋がる。
これをイレギュラーだと認識できるかが僕の部屋の最大の要点、いわゆる無知の知。



これが僕のやりたいことで、繰り返すけど「弱キャラでクリアするために、これらをしなければならない」じゃなく、「これらをやってれば、極論弱キャラでも行けるはず」というのが原点。
だから、縛りプロのゲストに付き合ってキツい弱キャラ出す時や、プロの部屋にゲスト参加する時はその確認の意味合いしかない。

普段出してるキャラはプロからするとヌルくて「しゃーねーな」ぐらいで付き合わせてる感強いけど、プロじゃないランマチの何でもあり勢からはまだキツく見られてるのか?が課題。耐久条件はCCなしぐらいだけど、火力条件見せてる時点で面倒くさがられてる可能性は大。
考えてほしいのは厳密にその数字に合わせることじゃなく、「その数字を見せた意味」なんだけど。(脳死じゃ無理=脳死すんな連携しろってことを伝えたいだけ)

加えて、既述のように連携=クエ理解必須っていう感覚も面倒くさいのか。実際にはクエ理解が乏しくても連携意識を保つことはできるけど、それ以前に、そもそも連携することすら億劫なユーザーが多いなら、もうランマチで建てる意味はなくなるわけで。実際に結構前からランマチで入ってくる非相互に即期待することは諦めている。

それでも一応、僕自身が何でもあり勢から連携絶対マンに変わったわけで、それはランマチに建った連携部屋に入り浸ってた結果なわけで。
そのうち同じような人が出てくることには希望を持ってて、実際、過疎化の一途ではありながら、ランマチの内容自体は以前よりも良くなった感覚はある。
未CCを残す人が激減したんだから、わざわざ「CCしないで残しとこ」っていう人は、それだけでも縛りへの基本意識が高い。多分そんな感じ。



余談:協力行為さえできれば、CC覚醒済みの最新不死身キャラのウッド縛りでもええんか?っていう自問を含めた疑義には、今のところ「YES」と答える。いいのか悪いのか、という点であって、もちろん僕がやりたいことではない。
実際それに近い部屋たまに見かけるけど、入ったことはない。彼らの目的は好きなキャラで比較的長くクエストを楽しみたいだけであって、負ける要素ゼロなのだから連携の練度が高まるはずがない。
逆に連携の練習やクエ理解のためにそれをやってるのなら、どんな縛りプロよりも尊敬できる。
そうであってほしいんだけど、もう少し条件を高めて「負けるのが普通」にならないと(オート含めた回復バリアなし、ウッド通常のみバーストなし)、ちゃんとした連携意識は芽生えない。

僕の部屋とかの未CC部屋で過剰耐久使う人と何が違うかというと、この紙耐久で負け続けた経験の有無。単純に負けるのが嫌で耐久を高めるんじゃなく、「とにかく死なないことが自分の役割」だと理解して、その役割を活かした連携ができるかどうか。
そのための不死身高耐久なんであれば、未CCだろうとレベルマ最新だろうといいですよ、という話。
もちろんそれだけの意識あるなら、未CCの方を選択するはずで、連携の練習するにもCC部屋じゃなく未CC部屋に入ってくるはずで。
そういうウッドとかのちょいキツCC部屋で、ある程度の連携意識し始めた人も、気まぐれに未CCに入ってこんかなっていう思いも結構ある。

当然最初は「CC環境に近づけようとする」から過剰耐久になるけど、「その耐久でも味方を活かせなければ無理なんですわ」って理解してもらうさじ加減が結構難しい。星19はさすがに自己回復禁止にしている。
正直、何でもあり勢でもPSは相当高い人多いから、例えば槍エクセ餅でジャスガしてるだけマンとかが発生する可能性もある。僕はほぼ建てないけど、たまにゲストで入る星21ではそういう人結構見たり。
まあ個人的な感覚では、初見から「槍エクセ餅でええやん」って気づいて実践できるだけでも大したもんで、そういう人はそんなチキンプレイじゃ満足できなくてそのうち勝手に無茶しだすだろうから、見込みは高い。


おてつがくてきなメモ#

〇カント→フィヒテ
アプリオリに属する認識理性では、形而上学的な超絶存在(要は神)は認識されえない。
→要約「時間や空間など、人間の理性と同時存在的な(直感的に認識できる)観念」に神様は含まれない。
→さらに要約「物心がついた瞬間、この世に神様の存在を直感するとか無理だろ常識的に考えて」
→裏返せば、物心がついた瞬間に認識できる観念によって世界は説明できる。
→世界は自己という個人の認識した観念(主観、自我)によって存在する。=主観的観念論


〇シェリング→ヘーゲル
「自己を含む) 世界は認識されることによって存在する」が、その認識の主体は自己ではなく客観的原理としてのナニモノかである。=客観的観念論
→シェリングくん「物質とか精神とか客観とか主観とか、この世の概念全部ひっくるめたモノや!『世界思う、故に世界有り』みたいな」
→ヘーゲルくん「『世界思う』って、物質に認識理性があるはずないやん…理性があるのは精神があるからやで、世界精神ってやつやな、それが世界を存在させてる絶対的主体や=絶対的観念論
→それってもう神様と何が違うの…とか僕は思うわけだが、それはまた後の話。


〇ヘーゲルの弁証法
上記で主観的観念論と客観的観念論を絶対的観念論に昇華させたように、ある命題や概念(テーゼ)に必ず含まれる自己矛盾、対立する命題(アンチテーゼ)を抱合し、より高次の命題(ジンテーゼ)に昇華させる方法論。
矛盾であるアンチテーゼを否定するが元のテーゼに立ち戻るのでもなく、双方のいいとこ取り的なジンテーゼを示すことにより、矛盾を克服する。このいいとこ取りの論理過程を「アウフヘーベン」と呼ぶ。

極端な例↓
・私はお肉が好きだ(テーゼ)
・でも太るのは嫌だ(アンチテーゼ)
→アウフヘーベンすることにより、太らないお肉の食べ方が工夫され、料理等の食文化や栄養学が発展する。

マルクスはこれを物質世界・実社会における発展構造として論じ、弁証法的唯物論を構築する。
弁証法的唯物論自体は、支配階級(テーゼ)と労働階級(アンチテーゼ)というような政治思想化していったが、現実世界の社会や歴史が弁証法的に発展・進化しようとしているのは客観的な事実である。(後述)


〇キルケゴール
観念的な世界の成り立ちよりも、「実在する単一の自己」にのみ真理があると考えた、友達いなさそうな陰キャ。
→世界を自己のみに限定するという意味で主観的観念論に近いが、世界の認識ではなく自己の確立が目的であり、またその自己は客観的観念論のように他者に認識されてのものではなく、物質として実在する唯物論の立場をとる。=実存主義
→彼が目指す確立された自己とは、「人間は絶対に死ぬという絶望」の克服であり、その為の生き方である。
→まず、ヘーゲルの弁証法によって示された発展的な方法論は、実生活に即していない理想論であるとして捨てる。「あれもこれも」のいいとこ取りは不可能であり、現実には「あれかこれか」の選択しかできない。
→さらに、どのような選択をしても自己矛盾や死の絶望は解消されない、一時しのぎの現実逃避に過ぎないと悲観して結局捨てる。マジ陰キャ。

先の例では↓
・私はお肉が好きだ
→言うても毎日食ってると飽きるやん?ていうか好きなもんだけ食べててもどうせ人間は死ぬやん、虚しいわ…
・でも太るのは嫌だ
→そんな痩せてるのっていいことか?実際そんなモテてるか?ていうかどんだけモテてても(ry

というように、「選択して、勝手に絶望して、捨てる」ことを繰り返すことによって矛盾を削ぎ落とし、真理である「絶望の救済」を見出すのが彼流の弁証法。
→全ての現世的なヘーゲル弁証法的可能性や理想を捨て去り、キルケゴールが辿り着いたのは、「神の前に立つ単一の自己」
→死の絶望の救済は神様と信仰によってのみ達成されるもので、またそれは教会等の他者を介してではない、神「個人」と己が一対一で向き合うことでのみ成立する。
→なんかもう悟りすぎてて、この境地に達した時点で実はもう死んでんじゃないか、とか思っちゃう。
→一方で、このキリスト信仰(キリスト教、ではない)への回帰がキルケゴールの限界でもあり、彼は神に対してだけは絶望することはできなかった。


〇弁証法的社会論、サルトル
※おさらいと現実社会
原理的に人間は己が認識した世界や社会でしか生きられないものであり、逆に言えば、例え精神から乖離した純物質的な世界があるのだとしても、人間はそれを「認識することでしか扱えない」。

認識した時点でそれは純物質としての本質を失い、人間にとっての認識、観念でしかなくなる。
人間は認識以外に存在を立証する手段を持たず、認識以前のモノはあってもなくても変わらない、触れることのできないアンタッチャブル、突き詰めれば「無」である。

観念論では、「無」は本質にはなり得ない、として認識以前のそれを放置し、認識のうちに存在の本質を探ろうとする。

観念論の核心となる弁証法は、この世界や社会に対する認識には「正」の部分と「負」の部分があり、2つを統合して「よりよいもの」へと昇華させたもの(アウフヘーベン)が「真」であるとした。

世界は「無」ではなく、正と負のアウフヘーベンにより導き出されるこの「真」こそが本質であるとし、弁証法はそこへ到達するための認識の方法論である。
全ての物事に自己矛盾があり、それを克服した先にある認識が真理である、と。

弁証法的唯物論は、その真理を物質として、認識との関係を逆転させた。弁証法による認識によって導き出されたから物質が存在するのではなく、真なる物質を認識するために、弁証法を用いる。

しかしそれも認識である以上、認識以前の純物質的な本質を意味しない虚構である。端的に表現すると、「全く矛盾のない、有意義な素晴らしい物質世界があるという思い込み」が弁証法的唯物論である。

よって、矛盾を克服するためにわざわざ物事から「矛盾を見つけ出し」、「これを克服しなきゃ(使命感)」とこねくり回して、虚構の上に虚構を重ねているに過ぎない。

いかに人間や社会が多様化しようとも、「万人が幸福である」という「真理」はあるはずで、社会や人間行動はそれの実現に向けて発展している。
→「(最低限)こうでなくてはならない」という規範、社会正義とそれに反する社会悪の発生。
→理念的には社会悪は弁証法によってアウフヘーベンされ、社会正義と抱合した「真理」へと昇華されるべきであるが、現実の方法論的には「炎上」という排除に過ぎず、アウフヘーベンとはとても言えない。
→弱者に対する同情にしても同様である。「全ての人間は幸福でなければならない」という理念は、社会方法論的には、万人に共通する「幸福の形」を定め、その形を達成することを社会に課す。達成できていれば全ての人間は幸福なはずなので、己は不幸だと叫ぶ弱者が存在する以上、社会は真理に到達していない。社会が悪い、こんな社会に誰がした、の理屈。
→一方で、共通する「幸福の形」を規定するというということは、裏返せば「この形が幸福だと感じるのが人間」という、個人の価値観の規定でもある。それは往々にして、社会正義とイコールである。「幸福の形」を社会が達成したにも関わらず、まだ不幸だと叫ぶ者はもはや弱者ではなく、個人主義の社会悪と化す。


〇ニーチェ
弁証法のこのジレンマを、ニーチェは「虚栄の道徳」と呼ぶ。社会によって個人の幸福の形を規定(制限)し、それに従い/従わせること、個人の社会化こそが真理だと信じている、「民主主義の奴隷」。人間は孤独ではなく、また孤独であってはならない、皆平等に幸福であるべきだという、粗野で浅薄な「水平化するものども」。結局彼らは、本質的には個人価値観の多様性を否定する。
→ニーチェの論は、ディストピアやアナキズムを肯定するものではない。原則的に「個人の生き様」を説いた人間論であり、社会の成立は自然発生的なものとして否定しない。しかしそれは、「万人の幸福」などという欺瞞的な迷妄を目的として成立するものではない。個人の孤独や苦悩を社会悪として排除する社会の中に、個人の幸福を規定することは不可能である。
→つまり社会の真理、社会の中で人間が生きる意味などというものは何も無い、虚無である。観念論が放置していた世界の本質である「無」を、改めて正面から捉えたと言える。
→社会に規定されたものではない、「個人の幸福」を追求することが、ただ孤独に生まれきた人間の目的である。それに社会的な意味などなく、弁証法が求める「真理」には到底なりえない。しかし、その虚無の中で己に対して己自身の価値だけは証明しうる。

キルケゴールが捨てられなかった神様を、あっさり「要らんわ、意味ないわ」って捨てた人でもある。
→神のみならず、彼はあらゆる全ての物事や概念に対して、「意味ないわ」って立場をとる(ニヒリズム)。
→世界とは物質的であるが本質は無意味で、目的や発展の方向性などもなく、ただあるがままにある必然的・運命的な存在であるとして、ヘーゲル弁証法における世界の発展も否定する(実際は既述のように、世界は弁証法的に発展している)。
→ヘーゲルの弁証法やキリスト教的宗教観は、無意味な世界に耐えきれない社会の弱者が生み出した「虚構の論理」であり、彼らが求める「世界の真理」などというものはどこにもない。
→「それでも生まれちまったんだから、まあ頑張って生きろ」というのが、ニーチェズムの基本的な立場。
→そのためニーチェの説く生き方は、キルケゴールのような真理を求める求道的なものではない。

方法論的なそれは、徹底した「瞬間的な生」の肯定、「生きてる意味なんかないけど、せめて自分で納得しなきゃ損」「客観的な意味なんかないけど、個人的な価値なら自分でつけたらええねん」という個人の自由意志と快楽主義の連続である。
→運命的な人生の中で挫折する時、この境地にない弱者は「何で俺がこんな目に」「こんな社会に誰がした」と、あくまでも「人生や世界の意味」に拘泥し、「こんなはずじゃない真理があるはずだ」と、弁証法等の虚構の論理に現実逃避する。
→ニーチェズムの境地に達した者(超人)は、まずそれを挫折とはとらえない。表層的には単なるポジティブシンキングだが、深層的には超人には「挫折(自己や人生に対する否定、アンチテーゼ)」という概念がない。
→その時同時に、世界は「同じ歴史を永遠に繰り返している」と示唆される。歴史は繰り返すという比喩ではなく、無限の時間の中で、有限の物質世界が、巻き戻しては再生するビデオテープのように全く同じことを無限に繰り返しているという意味。

例えば↓
田中太郎という人が2000年に生まれて、2080年に死ぬ。
すると彼は2000年に田中太郎として生まれ変わり、全く同じ人生を送って2080年に死ぬ。
以下繰り返し。この繰り返しにも当然意味はない。

これは来世(天国)というキリスト教的な概念の否定であり、神とは別の超越的な世界観である(あくまで世界観の提示であり、自然科学的にはこのような永劫回帰は起こりえない) 。
→よって、この永劫回帰に神の意志や信仰は介在しない。神に祈っても、繰り返される人生や死の絶望には何ら変化はない。
→無限に繰り返される無意味な一生は運命そのものであり、そのあるがままを受け入れて、実存主義に立った個人の生き方の覚醒を促している。
→瞬間的な生の徹底した肯定の連続、常に自分の全行動を確固たる意思で支持すること、運命的な世界と言って「なるようになる」ではない、「したいようにする」のが超人。
→その上で、「俺がやってることだから、俺のためにならないはずがない」という価値観を創造し、確立する。
→それはまた、世界の永劫回帰すらも超人による自由意志の産物となり、逆説的には「世界が何度めぐり来たとしたも、今この瞬間にある己の生を肯定し続ける」という超人を表す世界観として、世界の永劫回帰が設定されたと言っていい。


スリスタ照り焼きに寄せて#

キモい自分語りだけど
CFやピースの頃から何も分かってないまま、先人のホストさん達に甘えて縛り部屋荒らし回ってたこと本気で後悔してて
ようやく分かりだした頃には、その先人さん達はあまり部屋建てなくなってて
仕方なく自分で建てだしたけど、彼らの代替には程遠い自己中部屋で

なのに星19と20ほぼ毎日建ててるの僕だけっていう時期もあって
何で僕なんだ、よりによって一番中途半端な僕が残ったんだっていう葛藤半端なくて
アドさんに「お前が引っ張っていくんやで」みたいなこと言われて真に受けて空回ったり。

とにかく原点の、自分にできないことはやらないっていう鉄則は外さずに、逆にできることのギリギリのラインを初めて真剣に考えて
これがそのラインだな、と判断できたので、このスリスタ照り焼きは本気で「ゲストとして」クリアしてみたい縛りでした。

できないと思った部屋には入らない、逆に言えば入室した以上クリアするっていう、ゲストとしての矜恃を貫く意味で
これによって先人さん達がやってたことに並んでみせるとかじゃなく、彼らの部屋で暴れ回ってたことのケジメとして

森桑とかおもちさんの破滅地蔵も、参加してた時は「どうせ最後までは無理の数合わせですよ」っていう態度で、実質冷やかしの荒らしだったんで、それも含めてだけど

先人さん達が連綿と培ってきた白猫の縛りは、下手くそお断り玄人希望っていう操作PS偏重の排他的なものじゃなく、その逆で
操作PSがかなり低い人でも「こんなキャラで行けた!」という達成感が得られるように、クエ分析を重ねて連携を考え抜いてきたもの。
荒らしの懺悔の裏返しとはいえ、下手だから入らない、入っても数合わせだから手に負えない弱キャラは出さないっていう態度は、この研鑽の歴史を冒涜している。

アドさんやレイさんが「死んでもいいんだよ」ってよく言ってたの、それは高PSの自分達がカバーするからって意味だと思ってて「いやそれ上手いから言えるんやん」って僻んでたけど
低PSが生存できないというのは、まだ連携が洗練されてない、縛り部屋としての構築が甘いっていう証だから、更に研鑽を進めるための「死んでもいい」なんだというのが、僕なりの解釈。
それを再確認しているチャレンジでもあります(チャンコさん版も乱視さん版もクリアまであと一歩だけど)。

まあホストとしてやりたいことは違ってて、自分でこういう部屋を建てることは今後もないし、内輪でキツいことやろうって話になっても、今まで通り乗り気じゃないとは思いますが
縛りで知り合えた全てのおま皆様に改めて感謝m(_ _)m


白猫に対するゲーム観#

「ver3で白猫のメインコンテンツは協力からソロに移った」ということをよく言っている。

それは個人感覚として不動なんだけど、最近はver3以降に対するアプローチの回路が少し変わってきてて、
協力をメインコンテンツから降ろす自体が目的だったんじゃなく、発端は「どこでも○○マン」を排除したかったんじゃないか、というように考えている。

過去何度も協力の適正を細分化して適材適所を布教しようとしてたけど、元々ユーザーの教育失敗してる運営だから、どこでも○○マンは一向に減らない。
結局、クリアどころか部屋が成立しない→非適正でゴリ押しできるようインフレの繰り返し。
楽にクリアできるかできないかの違いで、どちらにしろ永遠一部のキャラしか出回ってないゲーム性とバランスは正常じゃない。

仕方ないから協力そのものを「色んなキャラを出さざるを得ない」仕様にして、バランス(適正と難易度)の概念自体を骨抜きにする。
「色んなキャラを使ってね!」という机上論的な都合を、表面だけ取り繕って具現した形。
代わりに、ソロでは「非適正じゃゴリ押しできない」クエを連発して、適材適所を教育し直す。

でもその適材適所の感覚を、ユーザーが協力に還元できる場がないと、マルチ協力ゲームとしてのゲーム性は戻らない。
マジマジシャンはその試金石だったと思うけど、明らかに失敗している。
質的にはちょっと前までの協力と同じなんだけど、やり方が後述する案山子クエと同じ構造で、適材適所の意味もピンポイントすぎた。
本来の適材適所は、マジマジシャンみたいな「所」優位ではなく「材」優位で、どんなキャラにも何かしらの役割が見いだせることを意味しないといけない。

ともあれ結局、多くのソシャゲユーザーがマルチにおいて優先するものは、協力だろうと対戦だろうと他者へのマウントだから
ソロでいくら適材適所を覚えても、それは白猫の協力でマウント取る手段にはなり得ない。

白猫協力のマウント合戦はイコール鬼神の取り合いで、攻略サイトにもはっきり「キャラを鍛えて鬼神を目指そう!」とか書いてある。
鬼神を取って同室者からマウント取るのが協力の目的だから、適材適所(役割分担)なんかしてるヒマはない。
構造がシンプルで敵のHPが多いほどよく、TCを更に単純化したような、要は案山子相手の練武場協力で、星30やドレスはまさにそうなった。

TCや星30で「強すぎない好きなキャラで〜」という遊びが意外に人気なのは、
「鬼神取るだけが全てじゃない」とは思っていながら、「本来の協力は文字通り適材適所」という感覚までは共有できてない人達。
一方で強キャラ禁止なのは「一目で鬼神取れるとわかったら面白くない」からなんで、鬼神取り合戦の価値観は少なからず残っている。

適材適所のマジマジシャンから、案山子の星30やドレスに再逆行したことから、運営は多分もう適材適所を協力に還元することを諦めている。
それは、「アクション」としてのゲーム性はソロに残し、「ソシャゲ」としてのゲーム性はマウント合戦に特化して協力で行うという分業化に見える。

どちらをメインと見るかは個々人の価値観だが、僕自身は白猫はあくまでアクションゲームだと認識しているので、
「メインコンテンツが協力からソロに移った」という言い方をしている。
これまではソロクエは極一部のHellを除けば脳死アンド脳死、アクションゲームらしいことは協力でしかできなかった。
縛りだけに限らない、適正を考えるという思考感覚等を含めた話。

ソシャゲの本質はガチャにあって、引いた人権でマウント取るのがゲーム性であるという人にとっては、より人権が把握しやすくなった今の協力は快適なメインコンテンツのままなんだろう、多分。

その他の白猫愚痴ツイート#

【環境に適してない義勇調整】
コラボ新規勢にも配慮したんだろけど
最新キャラに対しては、「環境に適した性能を発揮していない」って臆面もなく言い切れちゃうのは空虚な清々しさを感じる。

今の義勇にすら遠く及ばない、白猫の中で9割を占める旧キャラはどうなるのよっていう、今更の話を蒸し返すようだけど、まあそれだけじゃなく。

キャラに明らかな性能差が生じていくのは、個人的には不愉快だが理解はできる。
でもこういうお知らせは、仕方なくじゃなく明確な意図を持って性能差を付けているんだって再認識させられる。

調整するなら環境に適してない旧キャラ全部もだろって言いたいわけじゃなく、問題は運営の固定観念だと思う。

最新キャラは少なくとも旧キャラよりは強くないといけない、旧キャラは環境に適してなくても構わない、それがバランスだと思ってる固定観念。

各ガチャにおいて、いわゆる当たりキャラと外れキャラを設定するのもそうだけど。

ユーザーは常に最新最強だけを求めてガチャを回してる、逆に言えば継続的に最新最強を供給しないとガチャを回さなくなるっていう、これはもう強迫観念。

攻略サイトでよくある「今回のガチャは回すべき?」ってやつ、あれがユーザー心理の全てで、毎回「回すべき!」と答えてもらえるように腐心している。

ソシャゲ全体に言える傾向だけど、白猫運営は異常に思えるほどこれが顕著。

結局、キャラ愛とかビジュアルとか、性能以外の要素に対して自信が持てない、つまり性能よりそれらの要素を重視するユーザーに対する信頼度が低い。

また、性能にしても「当たりキャラか外れキャラか」っていうような相対評価であって、絶対評価で判断していない。
これは一般的にユーザー側の方が重症だけど、運営側がそれに引っ張られるのは本末転倒、運営は極力キャラの絶対評価のみをアピールするべきだ。

「環境に適していない」って、「他の鬼滅キャラに比べれば」とか「最近の強キャラ傾向に比べれば」って話で、義勇が絶対的に今の高難度をクリアできないって意味じゃない。

多分ユーザーの多くは義勇を「今回の当たり」だと思ってたんだろうし、運営側も当たりにするつもりが調整ミスったのかもしれない。

作中最強設定の人気キャラなのに白猫では(相対的に)弱いのはどうなのっていう意見に答えて、調整入れます当たりキャラにしますっていうのは悪くない、むしろキャラ愛勢の希望に珍しく答えている、非常にいいこと。

でもその理由を「環境に適していない」って絶対評価みたいに書くのは違うだろと。

絶対的に環境に適していないから外れ扱いだったんじゃなく、鬼滅ガチャの中では相対的に外れだっただけだろと。

さすがに「他の同期に比べて弱いから」って直接書いて「公式に同ガチャ同レア間の当たり外れを認める」ことはできない、だからってこの理由にするのは論点が完全にズレる。

1.最初に書いたように、「最新キャラは環境に適してないといけない、裏返せば旧キャラはそうでもない」っていう固定観念の開き直り的な表明、ゲーム性の構造的な欠陥
2.あるいは、ガチャ(課金)誘導策が最新キャラの対環境性能に依存しているという、強迫観念的な運営方針

3.加えて、相対的に環境に適していないだけのキャラを「環境に適していないから」とだけ書く絶対評価と相対評価の確信犯的な混同、上2つの合理化を優先した結果の現状認識力の欠如

色々白猫運営の闇を露呈してて、「ふーん義勇さん強くなるんだ、持ってないけど」みたく簡単には読み流せないお知らせ。


【キャラの差別化】
1.
毎度思うけど
やり込み要素を、育成要素の増設、細分化しすぎたキャラの差別化、つまりはインフレって方法でしか提示できないのが全てのソシャゲの限界。

ゲーム性に自信があるならマンネリズムを恐れるな、アクションじゃなくキャラゲーだと開き直るなら尚更、差別化は既に自明なのだと気付こう。

2.
運営はキャラの差別化と言ってるけど
差別化の意味を「色んなキャラが使える」と確信犯的に混同してるフシがある。

適材適所が成立する環境ならそれでいいんだけど、今回のアプデが向かうところは「最終的に誰を使っても一緒(Lv150にして通常で殴る)」の環境構築で、各キャラはむしろ均質化される。

その上で、差別化はユーザーの価値観に委ねられる。
キャラ愛とか、数字遊びレベルの性能誤差とか
で、この数字遊びレベルの誤差を根拠に、常に「当たりと外れ」「人権と産廃」が共同幻想として決定されて、それが収益の軸にもなるのがソシャゲの原則。

色んなキャラで試してみてね!は社交辞令でしかない。


【単調なアクション】
コロプラのアクションゲームの理想形に対する解釈は、マリオやゼルダの頃から歴史的に発展してきたものと乖離している。
パラメータ的に何発被弾できようと、アクションの理想形は「敵の攻撃は全て避けて、自分の攻撃は的確に当てる」、いわゆる完封のはず。

僕は全くできないけど、だからこそ「できる人」をアクションゲーマーとしてリスペクトしてて、白猫でも周回勢縛り勢関係なく「上手い人=被弾が少ない人」っていう不文律の共有価値観はあると思ってた。

一方で多くのユーザーの認識は「脳死周回ゲー」で、快適に脳死させろっていう需要は根強い(これは否定しない、所詮ソシャゲ)。
オワタ式の環境になっても、その需要に応えようと「いかに脳死させるか」で出た答えが、「殺るか殺られるかの低耐久高火力は、単調なアクション」という自己否定。

被弾を避けるっていうアクションの根源的な要素を排除して、敵とインファイトで殴り合うのが理想形っていう立場を示した。
マリオからの伝統的なアクションじゃなく、対人の格ゲーのゲーム性に近い(格ゲーでも完封が理想って人はいるだろけど、対人としてのゲーム性は成立しない)。

おせにゃんでは「被弾できるから、安全に回避や回復の練習できるね」とかフォローになってないフォロー入ってたけど
実質的には「快適に脳死させろ」を優先して「被弾しまくっていいよ、そういうゲームだから」というのを確定させたものに映った。

それはそれでコロプラや脳死勢の価値観として否定はしないけど
僕からしたらイレギュラーなアクションに見えるそれを、「理想のアクションゲームってこうだよね」とドヤ顔で押し付けて来たのは、やっぱめちゃくちゃモヤモヤした。

要約すると、アクション全くできない自分がそれでも白猫楽しむために必死で「被弾しない上手い人」の動き勉強して、ついていってた(だから「結果的に」縛り勢になっただけ、ここ重要)。
それをいきなり「あ、それは白猫が考えるアクションじゃないです」ってムゲにされて、ウキーってなってます。


【基本は回避・ブチギレ】
1.
何度も似たようなこと書くけど

お知らせに「基本は回避」って書いてるのが一番腹たってるんだわ。
脳死しても即ペロしませんっていうアプデで「言われたから耐久上げてやったけど、基本は回避のままですよ」って。

じゃあ今までの大多数の脳死勢は「運営の意図しない遊び方」で、回避する縛りの方が本来の遊び方だったのか?
白猫を「回避ゲー」か「脳死ゲー」かの二択で回答するなら、いつでも胸張って「回避ゲー」と答えてたってことか?

ふざけんなよ、ずっとその回避ゲーやってきた縛り勢に今回何してくれたよ。

2.
「単調なアクション」といい「基本は回避」といい、語彙力も構文力もなさすぎるんだよ。
ワイの神経逆撫でするためにわざとやってんのかと思うわ。


【ver3最初の総括】
とりあえず
ソシャゲ運営はユーザーに対して、運営としてのゲーム観を毅然と示さなければならない。
「これはこういうゲームです、気に食わんならやめれ」ぐらいの。

白猫はそれがない、「何か思ってたのと違いました」しか示されない連続。

全キャラ没個性の同じモーションで通常で殴るのが完成系で、そのためにひたすら協力行為放棄の鬼周回します、でもいいんだよ。
胸張ってそういうゲームです、と言うなら。
そういうゲームやりたかったとか、それも悪くないってユーザーはいるから、その人達のためのゲームですって割り切るなら。

それがあれば、僕なんかも「ああ完全に自分のプレイは運営の意図とはかけ離れてるんやねまあしゃーないわね」って立場を確認できる。
あーしろこーしろっていう要望も無駄なものだと完全に諦めがつく。

胸張って出したんなら、ver3の総括は「どうです面白いでしょうドヤ顔」で押しきってくれ。


【グラプロ】
もっかい違和感を整理

1.最適解(完全適正)
2.次善の代替(床ドン等のゴリ押し)
3.適材適所(尖った旧キャラ)

を使い分けさせるのがグラプロの目的として
1と3で「キャラの差別化」は達成されている、と主張はできる。
1と3を軸に進めて、どうしてもハマるキャラがいない時に2で頑張る、という理想。

しかし普段のゲーム性的に、最重要視されてきたのは2の汎用性(脳死)なんで、実際のプレイ傾向は「どこまで2を使えるか」になる。
何なら1の最適正より速いこともザラで、どうしても2では突っ張れない特殊なエリアでのみ、仕方なく1や3を出すという逆転もまかり通っている。

もちろん、2はエリアによっては1にもなるので、全部この「1か3でしか無理な特殊なエリア」でもいい、むしろグラプロ始まった時はそうなんだと思ってた。
「キャラの差別化」した上で「色んなキャラが活躍できる」と銘打って
何より「基本は回避の脱単調」だから。

が、2の汎用性があまりにも高すぎた。
持ち物検査の対象は1と3だと思ってたけど、実質的には2で、タイプ縛りの追加によってそれは更に鮮明になった。
タイプまで含めて1と3を網羅するのは現実不可能で、2をできる限り集めて充当するしかない。

それでも原則的には「1と3だけでもクリアできる」と強弁できて、それを持って「キャラの差別化」と「色んなキャラが活躍」の口実になっている。

この点については、元々「そういうやり方もできますよ」ぐらいの配慮なんで、グラプロの本質は実状に沿った「行けるとこまで2でゴリ押す」でも、別にいい。

2が主力だという実状自体に不満はない。
違和感は「1と3でやろうとするとキツくね?」でもない、クリア不可能レベルなのが本来のエンドコンテンツ。

違和感は、「でも2って単調じゃね?」という一点。
明記はしてないが2の汎用性を前面に出すのを実質推奨するなら、基本回避の脱単調の看板は降ろしてほしい。

「運営の意図するゲーム性」がどこにあるのかを見極めたいと散々言ってきて
それは脱単調です脳死は意図するものではありませんと表明しつつ、縛り遊び否定の仕様を乱発した時に、ブチ切れたけど。

グラプロも根本は同じ、基本脳死の2を容認しながら、運営は意図してませんけどと併記するのが気持ち悪い。


【決戦復刻のHP高すぎ】
ムカデからHP下げた、すごい
めっちゃ未練タラタラの長文説明付きで

いやでもこれ凄いわ、「敵を倒すことを目的としていない」って

練武場の案山子殴りだけでゲーム性完結してること認めてんじゃん、数値の上限を追求することが主体のパンチングゲーム
相互さんも「京ダメージ出せばユーザーが喜ぶと本気で思ってる」って書いてたけど

プロペラは最高傑作の敵やね

こんなどうでもいいクエの修正文で、5年来の念願叶ったわ
「正直なところ、運営の白猫観はどこにあるのか」

数字遊びのパンチングゲームで、敵はその数値の確認用の存在で、倒すのを目的に用意したわけじゃない
旧キャラが見栄えいい数値出せるようにすることと、それで敵を倒せるかは関係ない

心置きなく、見栄え悪い火力の旧キャラで頑張って敵を倒す、運営が意図してないゲームを遊びますわ
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