⚫︎と呼ぶことに、まだ躊躇っている


 凄惨極まれし島原、彼の地の乱を納めに赴いた宮本伊織は、ある幼子と出会う。
 この幼子、その身は人のそれではなく、贋造生命━━━外つ国にてホムンクルスと呼ばれしもの━━━であった。また、乱の中心に居た森宗意軒に造られし物であると。
 本来であれば斬って捨てなければならない存在。だがしかし、彼はこの幼子を連れ帰る事にした。

 得体の知れない拾い物、それを許した主君は、当事者たる幼子に告げた。

 恩義感じたれば、この小倉の地にて善く生きよ。また、恩人を助けよ━━━と。

 こうして人の世で生きることを許された幼子は、不慣れながらも人の営みに交わり、人を学習していった。
 彼女を見た者は、育てば、かの虞美人もかくや、と称した。それから幾許かの時が流れて、その予想に反することなく幼子は美しい娘に成った。
 あの鉄面皮が戦場で拾い子をした時には何事かと、周囲を驚かせたが、今となっては、彼に似合いの娘ではないか。そう考えを巡らす者も少なくはない。

 ただ一つ、誤算であったのは、算学、軍学、剣術と、同じ齢の男子顔負けの学を身に付け、年頃の娘が興味を引くものには目もくれず。縫い物、芸事とは一体何ぞや、と育ってしまったことである。
 そんな周囲の溜息も、どこ吹く風の彼女は、恩人に、また自身を受け入れてくれた周囲に恩を返すべく、能力を如何なく発揮した。彼が行く先々に、男装をしては共に行き、今では彼の右腕とも過言ではない働きをしている。

いや、そういうことではなかったんだがなぁ…と主君は嘆いたとか。



そんな世間のような娘子とは異なる形で育った彼女とて、色恋沙汰の話は耳にする。
近頃、世間では武家奉公に出れば、殿様に寵愛を受けるとの噂があるとか。

夢のある話だ。色めき立つのも無理はないだろう。
普段であれば、そう気にする話ではない。
だがしかし、殿でなくても、位あるものに見初められれば━━━━

そんな折、聞き捨てならぬ話が耳に入る。

━━恩人、宮本伊織が、嫁探しをしているとの噂である。

かの御仁が、軽々に女人に手を出すような者ではないことは知っている。
年若くして家老となり、それも独り身ときている。世間はそう放って置いてはくれぬだろう。

いやいや、伊織殿が身を固めるのは良い話ではないか。奥方が居れば、より仕事に身が入るというもの。
しかし、この胸を苛む物は何であろうか━━
もう少し、年頃の娘が好むような話に耳を傾ければ、答えが出るだろうか━━━




 江戸登城の折に、暇ができた。何かをねだる事のない彼女が珍しく、共に上野まで物見遊山に行きたい、と申し出た。
 近頃、顔を見合わせる度、憂い顔を覗かせる事を気にしていた伊織は、少しは気晴らしになるだろうと、快諾した。
 しかし、上野の広小路の大道芸、立ち並ぶ店の数々、蓮が見頃の不忍池を巡れど、彼女の顔は心ここにあらずといった様子であった。
 蓮飯でも食べようか。伊織がそう提案するも、彼女は首を横に振る。
 不忍池の畔を歩き進める内に、弁天島近くまで辿り着いた。ふと足を止め、指をさす。あの茶屋で休みたいと。
 伊織は目を見張った。

彼女が指さしたのは、知ってか知らずしてか━━━出会茶屋であった。



茶屋の一室に案内され、軽食を出してきた女中に素早く金子を握らせると、女は心得ていると言わんばかりの笑みで去った。
「疲れたろう。俺もこういった行楽地には縁がなくてな。あまり楽しませてやれなんだ。すまない」
いいえ。そう言って首を横に振る。
窓からは一面に咲き誇る蓮。それをただただ静かに眺めていた。
長い沈黙を破り、当人に尋ねる。
「近頃…伊織殿が嫁を探していると、そういった話をよく耳にします」
「武家奉公に出ている女中から嫁探しをしているとかいう話か。全く…誰が斯くも惑わす噂をしているのか…」
「家老の嫁の立場とは、余人には眩く映るものでしょうから」
「それだけでなく、俺にお稚児趣味の気があるとか」と苦笑いを浮かべる。
「悪いな。この話利用させてもらう。こうしてお前を連れ込む様な形を取らせてもらった。少しは嫁探しの噂も落ち着いてくれればな」 
お稚児趣味はいいのか…。いや、そもそも彼の目にはこの遊山、女子との逢瀬のようには映ってはいないようだ。
その事実が、より一層彼女の顔を曇らせる。

どうして…どうして私は、こんなにも、胸が苦しくなるのだ。
伊織殿には返しきれない程の恩がある。伊織殿のお陰で今の生がある。それ以上のものを望んではいけない。

彼女の顔を見やり、沈んだ面持ちに目を伏せる。
「すまない。お前に嫌な思いをさせたな。この埋め合わせはまたいずれ」

…そうか、私は彼に━━━

「ならばその噂、もっと説得力のあるものにしては」
そう言って立ち上がり、彼に向き合い座る。
顔に手を伸ばし、彼の唇に口付けた━━━━

唇を離し彼の顔を見やると、とても驚いた顔をしていた。無理もあるまい。
「これは…些か、拙い」
そう言って、彼は立ち上がると、窓の障子を閉めた。





夕刻。茶屋を出て、帰りの途につく。夕日に染まった池の畔で、足を止めた。
これを。と差し出されたのは鼈甲の簪であった。
「いつも、俺の仕事に振り回してばかりであったからな。年頃の娘らしい事をさせてやれなかったと、気を揉んでいたんだ」
「いいえ。それは全て、私が望んで、やってきた事ですから」

 簪を受け取り、柔らかく微笑んだ。





蛇足
タイトルは特にサムレムとは関係ないSee-Sawの曲の歌詞から
インスピレーション元は畠中恵のうずら大名
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