スーツ


ここは日車の自室。

対宿儺の防衛拠点として利用しているこの建物は元々は何かの研修センターだったらしい。各人に割り当てられた個室もある程度の機能を有しており、机、ベッド、ソファが設えてある。

「…頼みがあるんだが。」
ソファに腰掛けた脹相が少々遠慮がちに言った。彼が何かを頼んで来ることは珍しい。
「何だ?俺にできることなら。」
ベッドに腰掛けた日車が答えた。
「スーツを着てみたいんだ。オマエのを借りられないか」
「構わないが…どうしてまた?」
「何人か居るだろう、スーツで過ごしている者が」
日車の頭に教師の日下部、学生の三輪、そして自分が浮かぶ。
「俺はゆったりした服を好むが、人間の社会人はスーツが一般的だ。いずれ着用する機会があるかもしれない。」
脹相はゆっくりと答えた。
「だから仕事向けのスーツを着てみたいと思った。」

意外だな、と日車は思った。
脹相は服装には無頓着なタイプと感じていたから、将来の備えとは言えそういった発想をする事自体が驚きだった。

「俺に依頼すると指導料として30分5000円かかるぞ」
「そうなのか?!」
脹相が目を白黒させる。
「すまない悪い冗談だった。そんなに真に受けるな…今から着てみるか?」
「…??頼む。」

クローゼットに吊るしていたダークスーツ、洗い替えの白いワイシャツ、ストライプのネクタイを取り出す。
「少々大きめに作ってあるからサイズは大体問題無いとは思うが…」
「ああ…」
シャツに袖を通す。緊急事態なのでアイロンはかかっていないが上質な物だ。
「こういう服を着るのは初めてなんだな」
「いや、前に一度あるがそれは華やかなタイプだった。」
「パーティにでも参加したのか?」
「いや、そうではないのだが…またいつか話す。」
「そうか。」


スラックスを穿く。ウエストとヒップは問題ないが腿が少々キツい。
「やはりこの部分は若い君の方が筋肉が張ってるな。」

ベルトをしてネクタイを着けようとする…が、脹相のたどたどしい手付きを見て日車が言う。
「俺がやってやろう。」
「すまない。」
シュルッと絹が小気味よい音を立ててタイが形作られていく。脹相がその手元を見つめる。
「上手いな。」
「そこそこの齢だからな。上手くもなるさ。」

最後にジャケットを羽織る。
「ちょっと胸の辺りがきついか…?まあ君なら仕方ないか。」
「見た目は問題無さそうだぞ。」

鏡の前には新進気鋭といった若いビジネスマン風の青年が出来上がった。
「よく似合ってる。これでいつでも社会人になれるな」
「ありがとう……。」
「……。」
急に喋るのを止めた脹相に日車が問いかけた。
「どうした?」
「……やっぱり…オマエの…匂いがする。」
ボソボソと小さな声で脹相が答える。
「やっぱり…?加齢臭がするにはまだ早いと思うのだが…」
「違う!オマエに包まれているようだという意味だ!!」
鏡の中の脹相が顔を赤くして言い放つ。
「それは良いことなのか?」
「ああ……なんだか安心する。」
耳まで赤くした脹相が答える。
「そうか…それは嬉しいな。」
子犬みたいで可愛いな、と日車は思ったがそれは言わないでおく事にした。

代わりにそっと彼を後ろから抱きしめた。
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