『エレオスの掌(てのひら)』


 『エレオスの掌(てのひら)』それは、女神エレオスの影響範囲の広大さを表した言葉である。
ギリシャ人はオリュンポスの神々を信仰しない文明であるペルシアとエジプトには対抗意識を抱いていたが、それらの文明でもヌオーとヌオーの祖たる神は信仰されており、その人気は絶大であった。
それゆえに、ギリシャ人たちはそれらの神々をエレオスの弟か妹、もしくは子供として扱うとともに、エレオスの権威に畏敬の念を抱いていた。

 とはいえ、この概念は貴族や学者間では共有されていたが、庶民たちの間では一般的では無かった。

 ギリシャ全土に『エレオスの掌』の概念が広まったのは、紀元前5世紀のペルシア戦争が原因である。
この戦争に際し、ギリシャ全土がペルシア軍の攻撃を受け数多くの都市が占領された。
その中にはギリシャ世界の中心であるアテナイも含まれていた。

 占領された都市では、オリュンポスの神々の聖像は打ち壊され、宝飾品の数々も戦利品として略奪されている。
また都市に残っていた者は、殺されるか奴隷としてペルシアに連れて行かれた。
だが、エレオスとその眷属ヌオー由来の物に関してはペルシア人たちも敬意を持って対応し、それらに傷をつけたペルシア人は高位の者であっても処罰されたとペルシアからの生還者の証言が残っている。

 これはアケメネス朝ペルシアでは、エレオスに近しい概念の女神が篤く信仰されておりアールマティ、アナヒータ、ハルワタート、アムルタートがそれに該当していたからとされる。
また身近な聖霊としてのヌオーは、穢れを清め、悪霊を祓うとされ、ペルシア人はヌオーが彫られた装飾品を持つのが一般的だったとの生還者の証言がある。

 上記に咥え世界帝国だったアケメネス朝ペルシアでは、数多の民族が所属しそれにともなって数多の宗教が信仰されており、その仲介をしていたのがヌオーだった。
ヌオーはどの民族の宗教でも差異がほぼ無く存在していたので、それによって宗教的な対立を防ぐのに貢献し、そのために神話上での地位よりも遥かに厚遇されていたと考えられる。

 ペルシア戦争後、『エレオスの掌』の概念はギリシャ全土で庶民の間にも浸透し、その権威はおおいに高まった。
事実、復興されたアテナイでは都市神アテナに並び女神エレオスの神殿は大きなものとなったという。

 その後、『エレオスの掌』に挑戦する者が現れた、アレクサンドロス三世こと征服王イスカンダルである。
彼は『エレオスの掌』を越え、オケアノスにたどり着くことを目指し、伝説的な大遠征を行ったという。

 その征服した領土はあまりにも広大で、当時のギリシャ人が考える世界のすべてを版図とした。
しかし世界の果てとも思えたインドでさえ『エレオスの掌』の中であった。
インドでは女神エレオスはサラスヴァティもしくはガンガーとして篤く信仰されていて、ヌオー達はダルマの修復者および、罪を浄める者として大事にされていたのである。

 イスカンダルの側近達はエレオスに畏怖の念を抱いたが、イスカンダルは呵々大笑し、女神エレオスとサラスヴァティ、ガンガーを習合した祭祀を盛大に執り行ったという。

 その後、征服王イスカンダルが没すると、数多くの王が『エレオスの掌』に挑戦したが、誰もそれを越えられなかった。
なぜなら地球全土にヌオー信仰は存在しており、それを越えるのならば地球外に行くより他は無かったからである。

 その後、1969年7月20日20時17分にアポロ11号が月面に着陸し、『エレオスの掌』を人類は越えた。
この大偉業より30年後、恐るべき情報が世界に拡散される。
それはアポロ11号が月面より持ち帰った物のなかに、明らかにヌオーを象った像が六体含まれているという物だった。
当初はただの与太話扱いだったが、証拠品として公開されたヌオー像の一体を調査したところ、最低でも40000年以上前の物だと判明、また月面で無ければ付かないはずの粒子も多々計測されたのである。
その後も調査は続いているが……
確実とされる答えはまだ出ていない。
『エレオスの掌』は月にも及んでいたか否か、それはとうの女神エレオスだけが知るのだろう。
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