家を、追われる
作成日時: 2019-11-22 23:57:36
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家を、追われる
「えー!? おかしいでしょそれ!?」
マユミの上ずった声にシンリは少しびくっとする。他人が大きな声を上げることに、シンリはいつも緊張、というより軽い恐怖を感じる。一度電車で怒鳴り合う喧嘩を目にした時など、心臓が破裂しそうだった。
「ご、ごめん」
「なんであんたが謝るの!?」
数学の記述問題を解く手が止まる。そんなふうに言わないで。悲しい。その一言も言えずに、
「ごめん、マユミ先生。家庭教師としてマユミ先生に来てもらうのも、今日までだって」
沈黙が降りてきた。
マユミはうーんと唸って部屋を見回す。
最初にここを訪れた時、つまり半年前は、なんて殺風景な部屋だろうと思った。
ぬいぐるみも、人気アーティストのポスターも、脱ぎ散らかされた衣服も、何もない、真っ白な部屋。今ならその理由がわかる。
彼女は、モノを与えられるという形ですら愛されるということがなかったのだ。
家庭教師という形で東大研究員である自分が召喚されたのも、テストで満点より二点低い点をとってしまったのが原因なのだ。
(ここの両親は娘をなんだと思っているのだろう)
つい大きな声を上げたことを反省して、マユミは笑顔で手を伸ばす。
「……謝るのはこっちだね。あんまりシンリが言われたことが理不尽だから、ちょっとピキってきちゃって……来なよ」
シンリは困ったような顔のまま、マユミに身を預ける。四つの乳房がぴったり合わさるほど。
マユミはシンリの細い背中をポンポンと叩いた。無論、優しく。
シンリの体はさっきとは比べものにならないほど深い呼吸をして、息を吐くたびに背中の強張りが取れていった。
三ヶ月前からだ。
二人が女同士の恋というモノを知ったのは。
はじめはどちらだったのだろう。いや、最初にエモーショナルな反応を示したのはシンリだった。泣いて両親からの愛情の不在を嘆くシンリを、マユミが優しく抱きしめたのだ。
以来、抱き合うことは二人の重要なコミュニケーションになっている。そして、その先も、二人は予感していた。
「大学、受かるといいね」
マユミは穏やかにそう言った。声の震えがシンリに伝わる。
「うん」
しかし、最初の怒りの理由が、そこにはあった。
「東大、受かるかな。受からないと家を追い出されちゃう……」
と、シンリ。くっくっく。マユミの笑いをシンリは振動で感じる。
「そんなこと実際にはされないよ。そうだ、たとえ追い出されても私の部屋に住んだらいい。不自由なんかさせないよ。きっと楽しいし、ね?」
「お父さんお母さんが許してくれるかなあ?」
「……ばかだねえ。家を追い出そうって奴らが、どうしてそんなこと気にするんだい」
「世間体が、とか言うから……」
「ねえ、シンリ。言いたいことは言ったほうがいいんだよ。嫌いだ、憎い、って」
シンリは黙っていた。
その日の勉強はあまり捗らなかった。
※※※※※
受験当日、マユミはシンリに付き添うことにした。
もちもちの重たい雪が降る朝だった。
マフラーを直しつつ歩くマユミの目に、玄関に3人の影が映る。
マユミは悟られない程度に敵意を込めて目を細める。
東大以外大学じゃない。
それが口癖の官僚の夫婦。
シンリには、口癖などなかった。
いや、あえて上げるなら、「はい、わかりました」、か。
奴隷。
そんな言葉がマユミの脳裏に浮かぶ。間違っても口にできないが、事実を端的に現している言葉でもあった。
「さ、シンリ」
マユミが家の玄関の前まで来ると、母親が彼女の背中を押す。
休みの日だと言うのに、しっかりメイクまで決めた綺麗なおばさんだ。隣にいる父親も、無駄にスーツなんかを着ている。
普通の範囲を逸脱していないのに、背景を知っているマユミにとっては、それも歪みに思えた。
「じゃあ、マユミさんをしっかり受験会場まで送り届けますんで」
両親はうなづいて、シンリの背中を二人で押した。別にそんなことしなくったって前へ踏み出せるんだ、この子は。
しかしそう思うマユミとは裏腹に、シンリは動かない。
「どうしたんだ、シンリ」
父親が言った。あのシンリが。
マユミは驚いた。口答えも、反抗も、何一つしないあのシンリが、ここに来て何を……。
「行かない」
「ええ?」
「受験、止める」
「何を言ってるんだ!」
コンマセコンドで怒鳴り声が出た。雪は知らんぷりで控え目に降っているが、情景の穏やかさと比べてどうしてこの人は一瞬で湯沸かし器になれるんだろう。
マユミは不思議だった。
「あ、あの、お父さん、落ち着いてください」
「落ち着けるか! ばかなことを言い始めたんだぞ!」
父親はすっかりいきりたっている。
どうしよう。
マユミは悩んだ。どうするのが正解なんだ?
無論、自分の立場としてはシンリを無事試験会場まで送り届け、やる気十分な状態で試験に臨んでもらうことが最重要である。
しかし……。
シンリの恋人としては、どうするべきなのだろう。
「私、行かない」
再び、シンリが言った。
父親も母親も、自分は今沈みいく船の上にいますとばかりにパニックを起こした。
「一体何を言ってるんだ!」
云々。しかし両親が何を言っても、シンリはもうこれ以上いうべきことはないと言ったふうで貝のように押し黙ってしまった。
痺れを切らして父親の手が出た。
積もった雪がバシンという肉が肉を打つ音を吸った。
「シンリ!」
倒れ伏す彼女をマユミがしゃがんで受け止める。
「やめてください! 井上さん! 暴力は!」
「嫌いだ!!」
今までで一際大きな声だった。
いつもか細いシンリの声が。
しかし今回は雪でも吸い切れないくらいの大きさだった。
「な、何がだ、シンリ」
父親が怪訝そうに聞いた。少し気圧されている。自分の娘がこんな大きな声を出せると言うことを知らなかったのだろう。
「嫌い嫌い! お父さんもお母さんも大っ嫌い!」
「シンリ!」
母親がしゃがみ込んでシンリの両肩を掴む。
「なんだって言うんだい!? こんな時に! ちゃんと受験に行くんだよ!? いいね!?」
父親が無言で母親を押し退けると、シンリの胸ぐらを掴み、手を振り上げた。
暴力を阻止したのは、マユミだった。
「邪魔をするな!」
「いいえ! 止めます! シンリ、こっちへ!」
マユミはシンリの手を引いて逃げ出した。父親は追ってきたが、雪に足を取られて盛大に転んでしまった。
二人は駅とは反対の街の端まで走って、そしてマユミが促すまま、マックのテーブル席についた。
もう試験には絶対に間に合わなかった。
※※※※※
「やっちゃった……」
そう言って頭を抱えてテーブルに突っ伏すシンリの頭を、マユミが優しく撫でる。
「いいんだよ」
「よくないよ」
シンリはうめいた。
「あのね、ちゃんと考えてやったことじゃないの。きっと受験するっていう強い緊張感とストレスが、こうさせたんだと思う。
ねえ、卑怯だよね。喚いて、強情張って、ちゃんと対話せずに力づくで反抗して」
「いいんだよ」
マユミはシンリの黒髪の頭を撫で続ける。そうだ、二人暮らしになったら、染めてあげるのもいいかもしれない。もう束縛するモノなどないのだから。
「でもこのままだと未成年略取になっちゃうよ」
「……難しい言葉知ってるね。大丈夫だよ。弁護士雇うから」
「どうにかなるの?」
「なる。して見せる」
「なんでそんなに優しいの?」
シンリが顔を上げて、目だけでマユミを見た。審判するかのような探る視線。マユミは少し気圧されるが、すぐに見つめ返す。
「あんたが、今までたーくさん人生に貸しをを与えてきたから、私がそれを引き出して、返してあげてるんだよ」
「貸し?」
マユミはうなづく。
「そう、人生の、貸し。たくさんの楽しいモノを、諦めてきて、諦めさせられてきて、かわいそうだなって……」
「かわいそうだなんて言わないで。本当にかわいそうになっちゃう」
「ううん。私は言うよ。あなたはあんまりな目にあってきたんだもん」
「………そうなの?」
「そうだよ。経験しなくてもいいことを、してきちゃったんだもん。埋め合わせをしないとね」
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