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逃亡―――!
或いはそれは人間に残された僅かな本能を掻き立たせる、最も身近な原始的体験かもしれない。
彼の体からは湯気が立っていた。まさに冬の口、という気候。日の当たらぬところに身をかがめ、火照った体を小さく小さくするよう努める。
発汗が却って体温を奪う。しかし体の芯は熱い。心地よい凍えであった。が、じきに最悪の結果をもたらすきっかけとなるのを知っていた。体が冷えて筋肉が固まれば、それすなわち―――。
轟々となる足音が彼の思考を停止させる。ついでに呼吸も。ここもまずい。直感が叫ぶ。
彼は這い出して路地のさらに奥へと歩を進める。何があるかは知らない。何かがあるはずだ。どこかにでるはずだ。
体温のない指先が埃で灰になる。鼻の奥も乾いて痛い。靴の中も足の指も、暖かさがなくなりつつあるのに、蒸す。気持ち悪い。
この世の不快を緊張で煮込んだ最悪の気分。
しかし彼の顔は半分笑っていた。自嘲ではないのは確かであった。が、だからといってその正体を喝破することはできない。密かな高揚と、胸を締める緊張と、心を逆撫でる不快と、先のわからぬ不安と期待―――。彼は、多分、自らを理解できないで笑ったのだろう。どうしたらいいのかわからなくて、笑ったのだ。
何が彼を追い、彼が何から逃げているのか。多分、彼は、それさえ理解できていないのだろう。彼は笑いながら逃げるのだ。自らを理解できずに、ただひたすら。そう、ひたすら―――。
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