雛人形には、女の子たちの健やかな成長と未来が込められている、古来からの大切な行事である。
「あーあ…。面倒くさいなあ、はぁ…」
ため息混じりに、部屋の隅に飾られた雛壇を片付ける30半ばの女性。
いまだに独身の彼女、ヒナ子にとって、母が毎年行っているこの恒例行事は煩わしいものだった。
しかし実家暮らしという身と、この雛壇に自身の幸せな結婚が祈られているという事を知っている為、無下にする事も出来なかった。
1つ1つお人形さまを木の箱に片付けていく中、ふと彼女は人形に細かな汚れが付いてある事に気づいた。
お顔や手がポツポツと汚れている事もそうだが、注視すると衣服も微妙にほつれていた。
雛人形は古来の平安貴族や天皇をモチーフに作られている、彼女はそれを知っていた。
高貴な身分なのに、汚れていては何となくはしたない…。
そんな感情が浮かんだのだろうか、彼女はせっかくなのでお人形をキレイに繕ってあげる事にした。
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「ヒナちゃーん、入るわよー」
ドアの向こうの母の声に、ハッとする。
気がつけば時刻は18時になろうとしていた。
動画サイトや検索エンジンを使って手入れの仕方を探して、実践しているうちにすっかり時は過ぎてしまっていた。
「ヒナちゃん、そろそろ夕ご飯のお手伝いを…。あら?」
「あ、母さん。今ね、ちょうどお人形さんを直していたところなの」
母は憂いた表情だった。
雛人形をしまい忘れると、婚期が遅れる。
昔からの伝承が頭をよぎっていたからだった。
せっかく娘を思っての雛人形で、もしかしたら娘の未来に暗雲を立ちこめさせてしまうかもしれない。
母はすぐにでも片付けてもらおうと、一言述べようとしたが。
「ちょうど今ね、お顔の汚れを落としていたところなの。あとこれも終わったらね、服の補修もしようと思ってさ…。」
少し嬉しそうに人形を持って語る娘の姿に、母はすぐに片付けて、と言えなかった。
良かれと思ってやっている事だ、水を差すわけにもいかない。
それに、お手入れの為に出しているんだ、決して悪いことではない…。
母はヒナ子の行動に、強くNOとは言えなかった。
「・・・そうね!それならお人形さんのお直し、ヒナちゃんに任せてもいい?またご飯が出来たら呼びに行くから」
「えっ、いいの…?なら、ごめんね。明日はちゃんと手伝うから!」
じゃあ後でね、と呟き母はドアを閉めた。
雛人形の修理は1日では終わらず、服の補修が終わりお内裏さまを片付け始めたのは、あれから3日が経ってからであった。
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「はぁ〜今日も疲れた〜…」
ヒナ子は少し気怠そうに部屋に帰って来た。
雛祭りが終わり1ヶ月が経った。
相変わらず疲れる社内、家に帰っても家事が待っている変わらない日常だが、1つだけ新しい癒しが。
「ねえ聞いてよ〜、今日もミオさんからくっだらない話しに付き合わされてさあ〜…」
彼女が話しかけていたのは、キレイに着飾られ、お手製のかわいらしい台座に鎮座する雛人形だった。
ゆっくり時間をかけてお手入れをして以来、随臣の人形に妙な愛着を持ってしまい、1体だけこっそり持ち出して飾っていたのだ。
このひと時は、良いひと時であった。
仕事仲間にも、両親にもなかなか愚痴れない物事をドバッと思い切って話せる、良い毒抜きの機会になった。
人形は決してカチンとくる事は言わない。
いや、むしろ黙って自分の愚痴に耳を傾けてくれているようにも思えた。
「『ヒナちゃんって、結構出来る子なのになかなか男の人が言い寄って来ないのよね〜』って」
「『私なら自信持って紹介出来るのに、そういうお友だちが少ないって、やっぱりおかしいよね〜』だって・・・はぁ」
先輩社員の口真似をしながら、ため息をついた。
「そんなのアタシが一番知ってるわよ!何よ、その紹介した呑みの席で今の旦那さん獲ったバカは!!ったく嫌味なの!?嫌味で言ってるの!?」
少し赤く熱を帯びた顔で、ヒナ子は冷蔵庫から持ってきた果実味のするチューハイを呑む。
「あ〜あ…。もうやだよ、こうやって変なヤツにベタベタされながら、だーれもアタシの事なんて分かってくれないまま終わっちゃうのかな・・・ね?」
はあ…とため息がまた漏れ、缶に残っていた中身を一気に呑み干す。
「アタシ、どうすりゃいいんだろ…」
独身実家暮らし、それも三十代半ばという現実が、うつ伏せで顔を埋める彼女に重くのしかかる。
ふと漏らした言葉には、誰にも言えぬ不安がたくさん詰まっていた。
「大丈夫ですよ。私がいつでも、苦しくなったら聞いて差し上げますから」
目をつぶり顔を伏せていた彼女は、確かに男性の声を聞いた。
若く礼儀の姿勢がこもった、明らかに高貴な身分の男性の声。
ガバリと顔を見上げたヒナ子は、ハッと驚いた。
あの随臣のお人形の格好。
平安貴族の衣を纏った男性が、座り優しく微笑んでくれていた。
「あなた様のように、小さなお人形であっても慈しみの心を持ってくださる方の為なら、なんだってお聞きいたしますよ」
ヒナ子は状況を飲み込めなかった。
自分の部屋になぜ…?
そもそもこの方は誰?
いったいどうしてそんな格好で…。
「ああ…。当惑させてしまいましたね、申し訳ありません。私、平(タイラ)左兵衛佐(サヒョウエノスケ)貞文(サダフミ)と申します。これからもあなた様のお側で、いつでもお話しお伺い致しますよ」
丁寧に名乗り一礼する男性。
顔を上げた彼と目があった時、ヒナ子は恥ずかしさから俯いてしまった。
丸みを帯びた輪郭に、少し垂れながらもくっきりとした二重の目がしら。
優しさただよう彼のお顔を、顔を赤らめたヒナ子は直視できなかった。
この時、彼女はあの随臣の人形が台座から消えている事と、彼の姿かたちがあの人形と同じ事に気づいた。
そして、なぜだか人形が自分にだけこの姿を魅せてくれたんだと、自然に納得してしまった。
「そ、その・・・。貞文さまは、私なんかの愚痴を聞いて、ご迷惑では・・・」
穏やかに頬を緩ませる彼。
「そんな事はありませんよ、どうかご遠慮なさらないで。あなた様の不満が、少しでも私などで解消されるのでしたら、私は喜んでお受けいたしますので」
そう言って、貞文は優しくヒナ子の手を包み込んでくれた。
ひとまわり大きいが、温もりに溢れた彼の手に彼女はすっかり虜になってしまった。
俯きながら、彼女も話しかける。
「あ、ありがとう…!アタシも、なんだか貞文さまにそう言っていただけたら…」
「ああそんな。貞文だなんて堅苦しくなくても大丈夫ですよ。皆、私の事は平中(ヘイチュウ)と気安く呼んでくださっていたので、どうかご遠慮なさらず、気楽に」
「へ、平中・・・」
「はい。在原業平さまの在中(ザイチュウ)に掛けて、そう呼んでくださいました。なんとも恐れ多い事です…」
彼女は知っていた。
在原業平…。
平安時代を代表するイケメンの代名詞。
彼の決して嫌味の無い心配りと、その穏やかで端麗な容姿に、ヒナ子はすっかり惚れこんでしまった。
その日、彼女は明日が仕事である事も忘れて、一晩中自分の生活を語り、彼の平安京での生活について質問攻めにした。
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月日は流れ、もうすぐ7月になろうとしていた。
母はヒナ子の様子が、気になっていた。
めっきり婚活の話しをしなくなり、話しを振ってみても「今はそれよりも楽しい事があるから!」といった返事ばかり。
それどころか、最近は定期的にキャリーバッグを転がしてライブに行ったり、部屋の独り言が夜中まで続いたりと、以前のヒナ子はどこへやら。
まるで憑き物にでも取り憑かれたようだった。
この日もヒナ子は、家事を済ませてしまうとさっさと自室に籠もってしまった。
こっそり娘の部屋のドア側まで来た母。
聞き耳をたてて様子を伺っていると、今夜もやはり独り言を話していた。
それまで気づかなかったが、その独り言は楽しそうな会話のようで、1人で部屋にいるとは思えないほどであった。
娘の部屋に勝手に入る事は良くない事だと分かってはいたが、とうとう母はドアを開けて見てしまった。
母は目を疑った。
壁、壁、壁には『野田文麿』と名が書かれた男性のポスターがあちらこちらに。
そして、娘は雛人形を相手に楽しそうにお話ししていた。
「ヒ、ヒナ・・・ちゃん?」
「あっ母さん!今日もね、平中さまにお話し聞いてもらっていたの!」
娘の目は輝き、生き生きとしていた。
「平中さまに言われてから、アタシ気づいたんだけどさ・・・!無理に結婚を見据えて焦っても、アタシには今、平中さまがいるから結婚しなくてもいいや!って思ってさ!」
「平中さまも、アタシと居れて満更悪くも無いって言ってくださったし・・・。」
娘は嬉々とした表情のまま、畳み掛けるように話し続ける。
「それに、今際にも平中さまそっくりの方が居るから、て訳で調べたら文さまに会えたの!!そしたら文さま、ライブも普段もかっこよくてさ!!アタシ、今度は文さまに浮気しそうでもう〜…」
母は何も答えられず、ただ乾いた笑いを浮かべるしか出来無かった。
じゃあね、おやすみ…と母は呟くように娘に言い残すと部屋を出た。
娘の部屋の前で、母は立ちすくんだ。
あの様子ではもう結婚はおろか、まともな男性付き合いなんて無理だ。
もしかしたら、娘は一生独身かも…。という予感は、もはや避けられる事の無い現実となってしまった。
雛人形をしまい忘れると、婚期が遅れる。
この言葉の恐ろしさを、母は身をもって知ったのだった。
原案スレ ひなまつりをテーマに短編小説書くスレ
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